毒ガスの名前「イペリット」が伏せ字に

16歳で学徒動員された石垣さんは「イペリット」という毒ガスを扱っていました。皮膚に触れるとただれ、 大量に吸い込むと呼吸困難になり、苦しみながら死に至る猛毒です。

日記には、軍事機密だった毒ガスの名前「イペリット」を伏せ字にした上で、その危険性が記されていました。

【石垣肇さん 当時の日記より】
「〇〇〇〇〇(イペリット)の入った管を運ぶときは真剣だ」
「〇〇〇〇〇(イペリット)がついたら手は腐って斑点がつく」

そんな危険な毒ガスを使った爆弾を組み立てますが…

【石垣肇さん 当時の日記より】
「特薬運搬を二回やる。組み立てをやる。初めて組み立てた喜び」
「日本よ、勝て、勝ってくれ」

毒ガス弾の製造を「喜び」と記していました。その後、日本は敗戦。石垣さんは毒ガス製造について口をつぐむようになったといいます。

ところが、終戦から50年以上がたち、高畠さんの元に石垣さんから手紙が届きました。当時のことを告白するものでした。

【石垣肇さんからの手紙】
「私たちが10か月余、筆を工具に変えて必死に働いた相模海軍工廠は、茅ヶ崎の北・寒川町にあって、規模は小さかったが、びらん性ガス爆弾という国際条約で禁止されていた非人道的兵器を製造していたのです。後で振り返ってみると17歳にもなって実に単純な軍国少年でした」

高畠修さん
「まずいという気持ちがあったからこそ、次の世代に僕のところに送ってきてくれたのではないか」

石垣さんは2024年、96歳で亡くなりました。