「その日何が起きたか」

清加さんが「天真爛漫」なら、それはきっと母のさとみさんに似たのだろう。「命の大切さを学ぶ教室」の講師として呼ばれた中学校の校長室で、校長が「何の役にも立ちませんが」と、ひと言添えて名刺を渡すと、深くお辞儀しながら「いえいえ~家宝にします」と返して笑いを誘い、場を和ませた。

2025年2月、鹿児島県錦江町の錦江中学校で、「命の大切さを学ぶ教室」が開かれた。生徒およそ110人の前に座った新原さんは、「体育館、寒くない?寒かったら体を動かして良いからね」と何度も生徒たちを気遣った。

よく笑って、よく笑わせて、優しい。みんなに好かれる親戚のおばちゃんのような、それが新原さんに抱いた印象だった。2011年に家族を襲った事件とはなかなか結びつかない。

その日に何が起きたのか。講演では、手元に原稿を置いてゆっくりと話し始める。

鹿児島県錦江中学校 2025年2月

午前2時に鳴った電話 「お嬢さんがお亡くなりになりました」

「14年前の2011年2月19日土曜日でした。娘は仕事が休みで、部屋でくつろぎ休んでいたことでしょう。その日、私たち夫婦は、親戚の結婚式で山口県に行って、夜10時に家に帰りつき就寝。翌20日、日曜の深夜2時頃でした。寝室の電話がけたたましく鳴り響き、慌てて電話を取りました。

“北九州の小倉北警察署からです。そちらは新原清加さんのご自宅ですか?お嬢さんがお亡くなりになりました”と言われ、私はとっさに“え、どこでですか?”と尋ねていました。“マンションの自分の部屋で”と言われ、私はまたとっさに出たのが“自殺ですか?”という言葉だったように覚えています。

殺害と言われ、本当に頭が真っ白になりました。“今から来られますか”と言われ、“高速で行くしかないので5、6時間はかかります”と言うと、“その頃には多分いろいろ分かっていると思いますので、詳しくはこちらに来られてから”と、そんなようなことを言われたような気がします。」

20日午前4時頃、新原さんは夫と当時実家で暮らしていた長女と、小倉を目指して車を走らせることになった。娘が殺されてしまった、誰に?一体どうして?なんの情報もないまま小倉を目指して走るしかなかったという。