遺骨を遺族へ 市民団体の願い

犠牲者の遺骨を遺族のもとに返そうと、活動を続ける人がいる。市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」共同代表の井上洋子さんだ。

長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会 井上洋子 共同代表
「戦争中のエネルギー政策で、日本のために無理をして人災で殺された人たちです。人道的に考えたら、必ずこの遺骨はお返ししなきゃいけない。そこに誠意のかけらも持っていない日本政府。私たちは市民の力で、まず誠意を尽くすということですよね」

井上さんが衝撃を受けたのは、大学生の時に読んだ一冊の本だ。

長野県・天龍村で生まれ育った井上さん。戦時下、故郷の平岡ダムで朝鮮の人々が強制労働させられていたことを知った。

井上洋子 共同代表
「(この本に)『犠牲者の遺骨を風雨にさらしたままの平岡発電所工事場』と書いてある。高校の歴史の先生に、どうしてこういう事実をきちんと私たちに教えてくれなかったのか、手紙を出したくらいショックだった」

結婚を機に山口県に引っ越した後、長生炭鉱の事故を知り、2つの問題につながりを感じた。

その時出会ったのが、高校教諭で、事故の研究をしていた、「刻む会」の初代代表・山口武信さんだった。

山口武信 初代代表(2013年)
「今までずいぶん、ひどい目に遭わせている。お互いに豊かな国になれるよう、みんなが助け合っていけたら」

井上洋子 共同代表
「亡くなった皆さんに対する慈愛の心、そういうのを持ち続けた先生だった」

「刻む会」がまず目指したのが、炭鉱近くに追悼碑を建立することだった。

戦時中にまとめられた犠牲者の名簿。朝鮮半島出身者の殆どが、日本名で記録されていた。

「刻む会」は、犠牲者118人の住所に手紙を出した。『追悼碑に本名を刻みたい』という思いからだ。

犠牲者の遺族に宛てた手紙より(抜粋)
「祖国に帰ることができなかった方々の無念の思いを、旧炭鉱の地に永く記録したいと思っております」

「刻む会」には17通の返信があった。

家族からの返事より(抜粋)
「名前はキムジョンシクです。山口武信さん、父の亡くなった日だけでも教えてくれて感謝しております」

追悼碑が完成したのは2013年。「刻む会」の結成から22年の月日が経っていた。完成後の集会で、韓国の遺族たちは、山口さんにこう訴えた。

韓国人遺族
「私達の希望は素朴です。父の遺品を探し出したいのであり、父を海の底から引き揚げ、遺骨を故郷に葬ってあげたいだけなのです」

すると、山口さんは…

山口武信 初代代表
「金もかかるでしょう、時間もかかるでしょう。でも、自分の親兄弟を亡くした人にとって、どれだけ悲しいことかと思っただけで…」

井上洋子 共同代表
「体の悪い山口先生が、よじ登るようにして壇上に上がってきて、『ご遺骨を発掘しましょう』と、『必ずできます』と先生に言われたときに。やるんだなと」

「刻む会」は、遺骨発掘を決めた。

戦時中、日本で亡くなった朝鮮半島出身労働者の遺骨を巡っては、2004年の日韓首脳会談を機に、日本政府が返還に協力することが確認されている。