「父と一緒に死にたかった」 5か月後、母親が自死

「遠因死」とされるのは、病気の悪化などで亡くなった人だけではありません。

神戸市東灘区の山下准史さん(63)さん。

震災発生当日、両親が暮らしていた実家は2階部分が1階を押し潰す形で全壊。母の芙美子さんは何とか脱出したものの、父の金宏さんは帰らぬ人となりました。

山下准史さん
「2階が落ちてきて、(父・金宏さんが)『わしはあかん…』みたいな話をひと言ふた言したようで、それ以降、声が聞こえなくなったので、父はもうダメだったんだなとおそらく母はわかったと思うんですね。とにかくずっと泣きながら『お父さんが、お父さんが』と、なかばパニックの状態で言っていましたね」

教員だった山下さんは神戸に残り、芙美子さんは大阪の親族の家に身を寄せることになりましたが、夫を失った悲しみが癒えることはありませんでした。

山下准史さん
「とにかく“父と一緒に死にたかった”とずっと言っていましたので、『せっかく救われたんやから死にたいなんか言うたらあかん』とつい言っていた。“つらいよね”ぐらいね、もうちょっと声のかけ方があったのかなと思いますけどね」

震災発生から5か月が経った6月17日、芙美子さんは行方不明に。翌日、神戸で亡くなっているのが見つかりました。大阪の親族の家から神戸へ向かい、自ら命を絶ったとみられています。

山下さんはモニュメントに遠因死の人の銘板も掲げられるようになると、芙美子さんの名前も刻もうと決めました。

山下准史さん
「あの日がなければ、おそらく父も母も生きていたのは一緒でしょうし、“震災で亡くなった”というのは間違いないと思っています。“(父と)一緒にいたかった”、ずっとそういう思いがあったはずなので、あの空間に一緒に名前を貼らせていただくというのは母の思いに応えることにもなるのかなと」

モニュメントの運営を担う堀内正美さん。表に出ない喪失も公共の空間で共有することに意義があると考えています。

モニュメントの運営を担う 堀内正美さん
「パブリックの場で慰霊と復興のモニュメントで涙を流していれば、それを見つめてくれる方がいるし、誰かが心を寄せてくれる場になっている。“寄り添える場”としてあのような場があることはとても大事なんじゃないかなと」

あの日から30年を迎えた神戸・東遊園地。父親を震災で直接亡くし、その後、母親を「遠因死」で亡くした山下准史さんの姿もありました。「慰霊と復興のモニュメント」に掲げられた母親と父親。それぞれの名盤の前で手を合わせました。

山下准史さん
「(モニュメントに)名前が刻まれている方は直接死で亡くなった方、震災の影響で亡くなった方、いろいろいるけど、残された者としてその人を思う気持ちはみんな一緒だと思うので、(30年の)節目でこのあと人の足が遠ざかっていくのかもしれませんが、ここに、私を含めて来る人はすごく思いが詰まっているので、これからも大事な場所として残っていってほしい」