「6434人が犠牲となった」。阪神・淡路大震災を語る際に繰り返し語られる言葉ですが、人生を喪った人たちはこの数に留まりません。直接死や災害関連死とは認定されていない「遠因死」とされる人たちがいます。遺族の知られざる悲しみを取材しました。
阪神・淡路大震災から30年 知られざる遺族の悲しみ「遠因死」

12月、神戸市の「慰霊と復興のモニュメント」に新たに銘板を掲げた女性がいました。切り絵作家のとみさわかよのさん。銘板に刻まれているのは、祖父の多田英次さんの名前です。
神戸大学で教鞭を執っていた英次さんは長年、神戸市東灘区で暮らしていました。

とみさわかよのさん
「明治生まれなのに英文学を専攻するだけあって、“ハイカラ爺さん”でしたね。朝ごはんは紅茶とイギリス風のトースト、そんな人だったので、ひと昔前の“神戸らしい人”の典型みたいな人だったかもしれません」
心臓や大動脈に病気を抱えていた英次さん。阪神淡路大震災で自宅が損壊し、住み慣れた神戸を離れ、宝塚市の親族の家に身を寄せることを余儀なくされました。

とみさわかよのさん
「震災がなければ間違いなくずっと神戸で暮らして人生を終えた人。元気づけようと思って、昔よく行ったあのお店も移転したらしいよと、移転して頑張ってるみたいだから今度また場所確かめておくから一緒に行こうとか言っていたんです。結局果たせなかったんですけどね」
震災発生から1年後、英次さんは大動脈瘤が破裂し、この世を去ります。

とみさわさんは切り絵作家として、被災後の神戸の街を描き、震災と向き合ってきました。ただ、英次さんの死については、「神戸を離れたことによる体の負担や心労が死期を早めた」と思う一方で、複雑な感情を抱え続けてきました。
とみさわかよのさん
「家族にすれば『震災がなければもっと生きていてくれたはずだ』という思いがすごくある。でも、その日(1月17日)いきなり亡くなった方のことを思うと、私の家族も震災で亡くなったんだととても言いにくい」
しかし、震災30年を迎え、祖父の死に対する感情に一つの区切りをつけたいとモニュメントに名前を刻むことを決めました。
とみさわかよのさん
「本当に神戸が大好きな人だったから、もっと早く神戸に帰ってきたかったかもしれないなと思いながら“祖父の名前が残る神戸の街に残る”という実感が湧きました」

震災発生から5年後に生まれた「慰霊と復興のモニュメント」。
当初、銘板を掲げることができたのは、建物の倒壊などによる「直接死」や負傷の悪化などで死亡した「災害関連死」と公式に認められた犠牲者のみでした。
しかし、3年後からは震災の影響が少なからずあったと遺族などが考える、いわゆる「遠因死」の人々の銘板も掲げることができるようになりました。