己斐国民学校にも多くの人が殺到し臨時の『救護所』となりました。八幡さんも、額のけがを治療しようと、原爆投下から3日後、学校を訪れていました。かつて校門で桜吹雪を見た日のような、希望の光景はありませんでした。

八幡照子さん
「悲鳴ともうめき声ともつかないざわめきでいっぱい。うずくまってね、順番待ってる人のね、背中が大やけどで、そこに真夏の太陽が容赦なく照りつけて、本当にむせ返るような火傷の匂いにびっくりしてね」

友だちと過ごした教室や廊下は負傷者で埋め尽くされました。

八幡照子さん
「自分の教室を恐る恐る覗いてみたら、もう教室にも廊下にも、被爆者がいっぱい、大やけど負った人がね。みんな火ぶくれで目が開いてないの顔が腫れて。亡くなった人は真夏で腐るから急ごしらえのタンカーに乗せられて運ばれていくんですよ」

広い運動場には幾筋もの穴が掘られ、亡くなった人から火葬されたといいます。
約2000人が荼毘に付されたという校庭の光景は今も忘れることができません。

八幡照子さん
「吹き上がる煙は人を焼くにおいの異臭でいっぱい。わ~っと風に舞って運動場だけでなく校舎全体を包んでいた。怖いともかわいそうとも。あまりのショックでね、何の感情もなかった。ただ見てたの」

あれから80年ー。建て替えられた現在の鉄筋の校舎からは当時を伺い知ることはできません。

八幡照子さん
「小学校入学の時は堂々としたね。小学校。己斐国民学校だったのに…。まあ。ありがとうございます。こうやって改めて見て、原爆でこんなに痛めつけられたんですね。原爆の悲しみが伝わってきます」

学校中が負傷者で溢れかえったあの日ー。傷ついた校舎に目を向ける余裕などありませんでした。小学2年生だった八幡さんにとって、この校舎は“知らないことを学べる夢いっぱいの場所”だったと、涙ながらに語ります。

八幡照子さん
「まあ、よく見せてくださいました。本当に抱きしめたいくらい愛おしい私の学校だったのに...と思って。」

フィルムに残された学び舎は戦争と核の悲惨さを私たちに訴えかけています。