子ども心にも世の中が変わっていくことを実感していました。今でも戦時中の記憶と結びつくものがあります。

八幡照子さん
「白いおむすびが私の憧れだったの。もう本当に何が食べたいってこの白いおむすび。今も作ると幸せな気分がするんです」

“ほしがりません。勝つまでは” 厳しくなる生活にも耐えねばなりませんでした。

八幡照子さん
「日本が勝ったら学校に行って勉強できるとか。欲しいものも買ってもらえるとか。白いご飯も食べられると望みいっぱいで我慢してたの。すいとんという団子汁や、一握りのお米に野菜やお水を入れた雑炊をみんなで分け合って食べるような状態」

そして迎えた小学2年生の夏ー。爆心地から2・5km離れた広島市西区の自宅で父方の曾祖母、祖母、父と母、姉、弟2人の8人で過ごしていました。警戒警報が解除されたかどうか隣人に尋ねようと裏庭を降りたときでした。突然、閃光が走ったのです。

八幡照子さん
「ピカーっと空一面、巨大な蛍光灯になったようでした。あの光青白い」

毎日学校で練習していたように目と耳を塞ぎ、地面に伏せようと思ったとき、爆風に飛ばされ意識を失いました。幸いにも命は助かりましたが、裏庭から5~6m吹き飛ばされ、額にけがをしました。

近所で発生していた火災から逃れようと山に避難することになりました。

八幡照子さん
「頭もガンガン痛むのだけど、歯を食いしばってね、泣く弟の手を話さないで握って一生懸命母のあとを走ったのを覚えています」

山に着いて暗くなったかと思うと、八幡さんたちを大粒の雨が襲いました。

八幡照子さん
「大粒の雨がたたきつけるように土砂降りとなってね、みんなずぶ濡れになったの。白いブラウスがずず黒くなる汚れた雨で、粒が大きいの。普段と違う雨」

後にそれが、放射線物質を含んだ“黒い雨”だと知りました。被爆後、急性障害で高熱や吐き気、ひどい下痢に苦しみました。ずぶ濡れになり、父親が布団を運んでいる河原に逃げようと山を下りて河原に向かっていたときでした。

火の海と化した広島市中心部から逃げてくる人たちの行列を目の当たりにし、足がすくんだといいます。

八幡照子さん
「もう、それはね髪がね、爆風で逆立ってる人。じりじり焼かれた人。剥ぎ取られたりね、もう焼かれた皮膚。人によれば剥げた皮膚が手の先まで下がってストンと落ちないです。うめきながら泣きながら無言で我先にと逃げてくるんですよ」