◆戦争体験の「語り部」

武田剛さん

成迫忠邦の故郷、木立は、海沿いのエリアからは15分ほど山に向かって車を走らせたところだった。武田さんの自宅は、緑に囲まれていた。

1929年生まれの武田さんは、終戦時16歳。ご自宅には武田さんが描いたという油絵がたくさん飾られていた。こども時代の佐伯は、海軍景気で沸いていた。佐伯湾に停泊する軍艦を見に行って、戦艦の名前をおぼえたという。1941年には戦艦や航空母艦、巡洋艦など数十隻で構成された艦隊も山頂から見ていた。真珠湾攻撃の直前だったという。

6歳年上の兄はサイパンで戦死。空襲で遺体を目の当たりにしたり、機銃掃射で吹き飛ばされたりした。そうした体験を地元の小中学校で話していたそうだ。

◆忠邦さんの写真じゃよ

武田さんが描いた絵

まず、「スガモの父」、田嶋隆純教誨師の遺品にあった、白い海軍制服姿の青年の写真をおみせした。武田さんはじっと見ていたが、確信を得られないようで、何も言わなかった。次に、横浜裁判で判決を受ける青年の写真を見てもらった。こちらはアメリカの国立公文書館が所蔵しているものだ。武田さんはこの写真もしばらく凝視していたが、写真を手にしたまま、すっと立ち上がると、戦死した兄や妻らの遺影が並ぶ仏壇のほうに移動した。そして、「忠邦さんの写真じゃよ」と言って、嗚咽を漏らした。

考えてみれば、この判決を受ける青年が成迫忠邦であるとすれば、宣告されている判決は「死刑」ということになる。武田さんは写真の人物が成迫であると認識した瞬間に、気持ちがこみ上げたようだった。しばらくして、武田さんはもとのイスに戻られたが、「これは忠邦さん、間違いない」とつぶやくように言った。