「1860メートルという距離、今でも覚えてる」
「町の名前を背負って、いろんな世代で駅伝をすることは(自らの競技人生の中で)多分唯一だと思う」と大会の重みを語る飯塚選手。当時の記憶は、いまも鮮明だ。
「(2区は)1860メートルという距離、今でも覚えている。短距離とは違い、駅伝だと、多くの人が沿道にいて『がんばれー』と応援してくれる。これがうれしくて、前にいる選手を1人でも多く抜かしたいと必死で走っていたら、(自分のレースが)終わっていた」
当時のタイムは、6分20秒で町村の部区間7位。「市町駅伝に出て、多くの人に見てもらって、応援してもらうという喜びを感じるのは最高」。この感動が飯塚選手を12年後、五輪のメダリストへと成長させた。

すい星のごとく、駿河路に現れたのが、安藤友香選手。愛知・豊川高校卒業後、当時、所属していたチームがある御殿場市のメンバーとして、第14回大会(2013年)に出場すると、実業団や大学生など、有力選手が顔を揃える4区でいきなり区間新&区間賞。翌、15回(2014年)は浜松市中央で、16回(2015年)は浜松市北部で出場し、3大会連続で区間賞を獲得した。
サングラス姿で、両手を下げたまま、ほとんど腕ふりをしない「忍者走り」とも呼ばれる独特なフォームで、前を走るランナーをズバッとごぼう抜きしていく姿は、県民に強烈なインパクトを残した。その後、マラソンで世界陸上、10,000メートルで東京五輪の舞台に立った。