四宮 「宮本から君へ」という映画に関して、助成金が不交付になった。その不交付処分の取り消しを行う裁判で、最高裁で勝訴して取り消すことができたんですが、あれに関しては、その助成金というものを使って、国や行政が一般私人の「表現の自由」にある程度 関与するというか ある種のコントロールをするというのは、これは由々しき問題でした。

四宮 ですから 対国、対行政との関係では 「表現の自由」は、絶対的に守らなければ 守られなければいけない というふうに思っています。

四宮 あの裁判を行ったときの想いとしては そういう想いだったんですが、一般私人の間において、「表現の自由」が絶対的であるべきかというと、そうではない。

四宮 やはり、一般私人のプライバシーは、「非常に高度に保護されるべき権利」なので、ここは必ずせめぎあって、全体的に制約を受けるものなので、「表現の自由」が大事で、私も表現活動に関わっている人間なので、「表現の自由」は非常に重要だと思いますけれども、それが「絶対的な権利」だとは全く思っていません。


池田 日本と海外を比較して、何かが まだ遅れているとの認識はありますか。

四宮 「判例が少ない」というのが一つありますね。日本の場合は やはりその裁判をすることに躊躇してしまう。裁判を起こしても裁判所の「和解」という形で解決がされると、どういった解決がされたかっていうのが 全くわからない。

四宮 アメリカなんかは「判例法」の国なので、判例の積み重ねがイコール法律なんですよ。日本の場合は、判例法ではなく「成文法」といって国会で定められた法律が法律なので、判例がきっかけで法律が変わることはもちろんありますけど、判例の積み重ねイコール法律ではない。なので(日本が)裁判をあまり行わない。という国であるということと、判例が少ない…

四宮 そうすると、どうなるかというと、例えばプライバシー権侵害のことに関しても、昭和30年代の「宴のあと事件」※判決で示した プライバシー権侵害になる「基準」があるんですね。


「宴のあと事件」※
「プライバシー」という言葉が民事裁判で最初に用いられた
「宴のあと事件」(東京地裁 昭和39年)の裁判。

判決では、「プライバシー権」について「私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利」と定義。公開された内容が以下3点を満たす場合に権利の侵害が認められる事を示しました。

私事性:
私生活上の事実または事実らしく受け取られるおそれがある事柄であること

秘匿性:
一般的な感受性を基準にして公開して欲しくない内容であること

非公知性:
一般の人々にまだ知られていない事柄であること

四宮隆史さん


四宮 それが今でも…その基準が通用して、ただその「基準」が悪いわけではないんですが、ただその基準に事案の当てはめをしていく時に、昔と今とではやっぱり事情が変わってくるので、その当てはめの部分で、今の時代に合った判断をしていくべきだと思いますし、そういうそういった裁判例が積み重なっていけば、少し変わってくるのかな…というふうには思いますが。

四宮 ただ、プライバシー権侵害の裁判って (裁判を)起こす方からすると ものすごく勇気のいることなんで、プライバシー権侵害の裁判が数多く行われれば良いと思えないところもあって、難しいところではあります。

四宮 なので、表現活動だったり、メディア・媒体、色んな事が変わってきて、アナログとデジタルというだけでも「全く違う」と思うので 「新しい基準」を設けるべき時に来たのかな…という風にも思います。


池田 言いたいことがあるのに、我慢を強いられる…それは日本の芸能人の文化なのでしょうか?

四宮 そうですね、我慢を強いられてきたのかもしれないですね。芸能人とかタレント、アスリートも 自らの意見を発信するっていうのが、ある種 躊躇する世の中だったとは思います。

四宮 芸能人・アスリートが自分の意見を発信すると「いかがなものか」っていう風潮があったかもしれないですが、最近のSNS、これも「良い側面」だと思いますけど、そういうツールを使って 自らの意見を発信することができる環境にはなってきたかなと。

四宮 ただ「炎上」という言葉があるように 芸能人の方は、言葉尻であったり、ちょっとした内容で炎上してしまって、その炎上を皆さん、ある種「エンタメ」として楽しんでしまうところがあるので、ツールはあるけれども、発信するのは勇気がいる…という状況は変わらないかなとは思います。