■元IRAに問う「2000人の死をもたらしたことを正当化できるのか」


この日、私たちが話を聞いた人がもう一人います。

レイモンド・マッカートニーさん(当時17)。彼も事件当日、デモに参加していました。

事件をきっかけにIRAに入り、殺人罪で有罪判決を受けるも再審無罪となり、その後はシン・フェイン党の政治家として北アイルランド議会の議員も務めました。筋金入りの“リパブリカン”です。

私たちはデリーの城壁の下、ボグサイドが見渡せる高台に上がってインタビューを始めました。



元IRA(暫定派)メンバー レイモンド・マッカートニーさん:
「銃撃が始まり私はすぐに隠れようと思いました。集合住宅の駐車場を抜けて逃げたのを覚えています。今いる高台からそう遠くないですよ。集合住宅の階段の下に隠れたんです。銃声が聞こえてきました。

何が起きているか完全には理解できませんでした。銃声はすごく大きくて、空っぽの通りに響いていました。

20分くらいの間に非武装の13人が、自分も参加していたデモで殺されたんです。

非暴力のデモや、公民権運動という理想、つまり強大な政府に平和的に立ち向かえる、という理想はあの日、英軍がこのロズヴィル通りでやったことで私にとっては終わりました。

平和的なデモでは自分の権利を手に入れられないと思ったんです。唯一の手段は立ち上がって戦うことでした」

ーーその後、IRAに志願しましたよね。なぜですか?

「IRAに入ったら、その後に歩む道は限られていました。牢屋に行くか、逃亡生活か、撃たれて死ぬか。なので私も数か月は悩みました。でも周りで起きていることを見て、これが自分のやりたいことだと思いました。

私から見ればIRAは唯一、英国に立ち向かい、その支配を終わらせることができる組織だったんです。



何百人もの若者が事件後、IRAに入りました。その後の1、2年でたくさんの人間が刑務所に入りましたが、多くが『血の日曜日事件』が大きなきっかけだったと話しています」

必ず聞きたい、聞かなければならない質問がいくつかありました。

ーーIRA内でのあなたの役割は?

「志願して入ったメンバーですからね。どんな軍事組織でもそうですが、上官の命令に従って任務を遂行するということです」

ーーぶしつけな質問ですが、人を傷つけたり殺したりしたことはありますか

「いいえ。そういうことは言わないことになっていますが、答えはNOです」

ーー紛争では約3500人が亡くなりました。統計によればそのうち約2000人は、あなたのようなリパブリカンによって命を落としました。正当化できることですか?

レイモンドさんは少し息を吸い込んで、わずかに間をおいてから話し始めました。

「紛争が起きたんです。“リパブリカン”としては、武装闘争は必要でした。誰かの死を正当化できるかどうか。一つ一つの死は個別のもので、それぞれ違います。他に方法がなかった、という説明がなされることもありました。本当は他の方法があるべきでした」

■「政治運動を弾圧で抑えられたことはない」

元IRA(暫定派)メンバー レイモンド・マッカートニーさん:
「1972年は紛争中、最も血が流れた年でした。その同じ年に、英国政府はリパブリカンの指導者をロンドンまで空路で連れて来て交渉をしています。交渉は決裂しましたが、英国政府は、これは政治的な紛争だと認識していたわけです。英国政府は、軍事的手段や抑圧、拷問、投獄といった手段ではこの紛争を解決できない、と気づくべきでした。

この紛争についてよく言われるのは、振り返ってみれば、『やるべきでなかったこと』『他の方法でやるべきだったこと』があった、ということです。

世界の歴史を見てください。政治運動を弾圧で抑えられたことはないんです。一時的には抑圧できるかもしれない。一世代や二世代くらいは。でも再燃するんです。政治が原因である場合は、政治問題として扱うべきなんです。

ただそう言っても痛みは消えません。“リパブリカン”が多くの損害を与えたこと、人々に痛みを与えたことは認めます。それは癒えることはないでしょう。



でも新しい世代に伝えたいのです。政治的解決を失敗に終わらせてはならない、と。なぜなら失敗すれば後に抑圧や紛争に繋がっていくからです。紛争は政治的問題として扱い、政治的問題として解決すべきなんです」