■「我々は前に進もうとしています」


ジョンさんにも、レイモンドさんにしたのと同じような質問をしてみました。

ーー「血の日曜日事件」の後、IRAへの支持に変化があった、支持が高くなった、ということですが、あなたもそうでしたか?IRAを支持しましたか?

弟を殺された ジョン・ケリーさん:
「ええ。そうです。IRAを保護者だと見ていました。我々は銃を持ちませんでしたし、身を守る術はありませんでした。『血の日曜日事件』でも明らかになった通り、あの日の死傷者は誰一人として武装していませんでした」

ーー北アイルランド紛争では合計で3500人が亡くなりました。統計を見れば約2000人がリパブリカンによって命を落としました。それは正当化し得ますか?

「わかりません。いかなる死も正当化できません。どんな死もです。どちら側であろうと。



なぜなら、命は大切なんです。たった一人の死でさえあってはなりません。

3500人以上が、あの時期に命を失った。酷い、酷い話です。

私は遺族として、他の遺族たちの気持ちが分かります。たくさんの苦しみ、たくさんの痛み、たくさんのウソ…我々はそれを耐え忍んできました。『あなた方の痛みは我々の痛みです』と言ってきました。

私の家族はマイケルを失いました。その感覚は誰かを失った他の家族と同じです」

ーープロテスタント系住民とカトリック系の住民の間で和解は可能でしょうか?

「もちろん。ここでは様々な取り組みが行われています。昨夜の恒例のミサにはアイルランド聖公会(プロテスタント)の主教も出席していました。

長年、前向きな取り組みが継続しています。両サイドからです。でもロイヤリストの一部、たとえばデリー郊外の2つの地区では今、(兵士Fらが所属していた)パラシュート連隊の旗が掲げられています。そういうことをやる人もいるんです。彼らの考え方は変わりません。変えることはできません。

『血の日曜日事件』のウソが喧伝され、(英残留支持の)ユニオニストたちはそれに飛びついたんです。私たちの兵士がそんなことするわけない、と。でもサヴィル卿調査委員会の後、そういう人たちも態度を改めざるを得ませんでした。

多くのユニオニストは『血の日曜日事件』の真実を受け入れています。でも、中には絶対に受け入れない人達もいるんです。

我々は前に進もうとしています。平和な未来に向けて。でももう私の世代の話ではないですね。もう長くないですし。それは後に続く世代、孫とか、ひ孫とか、彼らの未来の話です」

■「世界は学ばない…人を殺しておいて、ただで済むはずがない」


ーー似たようなことが世界中で繰り返されています。ミャンマーとか、シリアとか。血の日曜日事件の教訓とは

「これまでたくさんの『血の日曜日』がありました。血の月曜日、火曜日、水、木、金、土曜日…



世界は学ばないんだと思います。人を殺しておいてただで済むはずがない、ということを。

全ての政府に言いたいのは、我々のケースと同様、無実の人達が殺されれば、人々は真実と正義を求め続ける、ということです。

無辜の民を殺しておいてただで済むはずがないんです。必ず誰かが被害者の味方になって戦うんです。

『血の日曜日事件』の遺族はごく普通の家族たちです。

それが英国の支配層に立ち向かい勝ったのです。そしてキャメロン首相(当時)が謝罪したんです。事件は正当化されないし、正当化しえない、と。間違っていた、と。謝罪をしました。そんなことは初めてでした。英国の首相がアイルランドでの治安部隊の振る舞いについて謝罪するなんて。

アイルランドは少なくとも800年に渡って散々、酷い仕打ちを受けてきました。その中で、これが初めての謝罪だったんです」



ジョンさんは事件現場そばに建てられた「フリー・デリー博物館」の職員として、また語り部として、日々、訪れる人達に当日のことや、その背景について、語っています。

ーー弟が撃たれた場所を通るわけですよね?

「毎日ですね。なぜそんなことができるのか、と尋ねられることもあります。でも、私は一種の『特権』だと思っています。ここで働き、マイケルの代わりに話をできることを。弟はしゃべれませんから、代わりに私が語るんです。

他の犠牲者も同様です。日々、彼らのストーリーを語っています。私はこの仕事が好きですから。とにかく、人々に真実を伝えたいのです。それが全てです。それが私の日々の仕事です」

50年目の追悼集会には虹がかかりました


ジョンさんが言っていた「パラシュート連隊の旗」を掲げた地区に来てみました。道路標識のアイルランド語の部分が塗りつぶされています。



ボグサイドでは街灯の柱が緑・白・オレンジのアイルランド国旗の色に塗られているのがよく見られましたが、ドラマホー地区では赤・白・青の英国旗の色に塗られています。



また、ボグサイドでは壁などにIRAと落書きされていることがありましたが、ここでは配電盤にUDA=アルスター防衛同盟(ロイヤリスト側の準軍事組織)の名前が落書きされていました。

そして、幹線道路沿いには、赤地に白い紋章があしらわれたパラシュート連隊の旗が2つ、はためいていました。



血の日曜日事件の50周年に合わせて、市民を射殺した連隊の旗をわざわざ掲げるのは、挑発的な行為であると同時に、根深い分断、あるいは憎悪を感じさせるものでした。

この地域は必ずしも全部が全部プロテスタント、という地区ではないそうですが、旗は、メディアで報じられて批判の声が出ても、掲げられ続けていました。

事件から50年。北アイルランド和平から24年。しこりは消えてはいません。

治安部隊による過剰な武力の行使は時にさらなる暴力の引き金となり、何年にも渡って禍根を残す。『血の日曜日事件』はそれを今に伝えています。

50年経って、これからこの街が過去の対立と惨劇を乗り越えていけるかどうか。
それは、まだ何とも言えません。