極細眉にローライズが似合う“自慢の姉”
新聞記者だった父の仕事の都合で、私は2002年から2年間南アフリカのヨハネスブルクで暮らした。10歳という多感な時期だったが、楽観的な両親のもと英語も分からぬまま気付けばヨハネスの現地校に放り込まれていた。日本以外の世界を知らないおかっぱ頭の私を待ち受けていたのは、英語のほかに公用語として覚えなくてはならない「ズールー語」や「アフリカーンス語」、多種多様な人種・文化・宗教のバックグラウンドを持つクラスメイトとの邂逅だった。
登校初日の心細さは今でも覚えている。ただ、それは杞憂に終わった。当時の南アフリカはアパルトヘイトが撤廃されてから10年が経った頃で、国民全員が負の歴史を乗り越えた誇りを持ち、「虹の国」を目指してともに歩みを進めているような感覚があった。学校に私以外の日本人は一人もいなかったが、人とは違うそれぞれの「個性」こそ素晴らしいものなのだと教え込まれた。マイノリティであっても劣等感を感じることはなく、むしろ他人との違いを誇りに思えた。友達にも恵まれ、いつしかこの国が大好きになった。

中でも、特に楽しみにしていたことがある。
それは、姉のように慕うマンポが学校に迎えに来てくれることだった。
アパルトヘイト撤廃後、自由を掴んだ彼女は、奨学金で名門大学に進学。
「まったく知らない文化に触れたい」と日本に留学したマンポは、帰国後、その語学力を生かし、南アフリカに赴任してきた日本人の新聞記者のアシスタントをつとめることになった。それが、我が家との出会いだった。
共働きの忙しい両親にかわり、たまに私や姉の送り迎えを担ってくれていた。
ヨハネスブルクでは基本的に一人で街を歩くことはない。
歩けないこともないが、一日平均75件の殺人事件が起きるこの国で、あまりお勧めはしない。
私も他の子どもたち同様、誰かの迎えが来るまでおとなしく校内で過ごした。そうして夕日が差し込む時間帯になった頃、ようやくいたずらっぽく笑いながら右手をひらひらさせてマンポが登場すると、嬉しくて踊りだしたくなった。
当時から俳優としての道を歩み始め、連続ドラマなどに出演していたマンポは、すでにちょっとした有名人だった。彼女見たさに外で遊んでいた子たちも集ってくるほどで、私は周りから受ける視線に酔いつつ「マンポは私のお姉ちゃんなのだ」と心の中でささやかなマウントをとりながら、大好きなマンポとくっついて一緒に帰った。

マンポはとにかく派手で、とても素直で、どこか抜けていた。
いつも信じられないくらい長く四角い形のネイルをしていて、彼女が通ると甘いムスクの香りがあたりに広がった。当時流行っていた極細眉に、ローライズのジーンズが本当によく似合う人だった。親が仕事でいないときは、土日も私と姉の面倒を見てくれた。家ではずっとパジャマでいる私を「パジャマ・プリンセス」と呼び、鼻にいっぱいシワを寄せて笑いながら強く抱き寄せてくれる彼女が、大好きだった。太陽みたいに明るくまっすぐで、恋愛になると周りが見えなくなることもあったが、その欠点さえもすべて彼女の魅力だった。
父の赴任期間を終えて、私たち家族は2004年、日本に帰った。
帰国後の日々に忙殺され、いつしかマンポと連絡を取り合うことはなくなり、連絡先さえも分からなくなっていた。