戦争の現実を伝え、未来に教訓をつないでいく特集企画を先週からシリーズでお伝えしています。現場の兵士として出兵した福岡県出身の藤中松雄さん。アメリカ軍から戦争犯罪人、BC級戦犯として命を奪われました。嘉麻市の平和祈念館には藤中さんが残した21枚の遺書が収蔵されていますが、このほど22枚目の遺書がみつかりました。

◆父が残した遺書

BC級戦犯として命を奪われた藤中松雄さんの次男、孝幸さん75歳。孝幸さんの手元には、父が残した遺書のコピーがあります。

RKB大村由紀子「辞世の句がここにあって、これが午後9時25分、あと三時間で、21枚目の遺書はここで終わっているんですよ。この遺書のあとの分ですね、田嶋先生のお宅にありました」

◆「BC級戦犯」藤中松雄さん

藤中松雄さんは終戦の年の4月、沖縄県の石垣島で、米軍爆撃機の搭乗員で捕虜となった3人のうち1人の殺害に関わりました。

連日の空襲で仲間の兵士を失う中、行われた米兵の捕虜殺害。仇討ちのように大勢の日本兵が関わり、そのうち46人がBC級戦犯として、米軍から裁かれました。「石垣島事件」と呼ばれています。

◆28歳で絞首刑に

この事件では、最終的に7人が絞首刑となり、松雄さんは、そのうちの一人となりました。まだ28歳でした。


1950年4月5日、死刑執行の宣告を受けた松雄さんは、米軍が管理する東京のスガモプリズンで、執行までの経過も記録した遺書を書き始めます。

◆教誨師の田嶋隆純さん

スガモプリズンで死刑囚に最後まで寄り添った、教誨師の田嶋隆純さん。田嶋さんから最後の食事への希望を聞かれた松雄さんは、代わりに申し出たことがありました。

*遺書朗読「出来ますならば、何か果物二ヶお願い致します。私は食べたくはありませんが、二人子供に父として最後の愛情を注ぐ一片にでもなればと思いお願いしたわけです。」


米軍は、要望に対して、りんご一個を部屋に差し入れました。

◆「遺書を読んだのは18歳のころ」

*遺書朗読「孝一、孝幸ちゃん、父が居ない為、老いの身もいとわず、おぢいちゃん、あばあちゃんは、母ちゃんは、どんなに孝一、孝幸ちゃんの為に御苦労なさって居るか、決して決して忘れないでね。可愛い可愛い、孝一、孝幸ちゃんよ。「始めて今、涙が出た」顔を洗って尚続ける。」

松雄さんが処刑された当時、孝幸さんはまだ3歳でした。仏壇にしまってあった遺書の全文を読んだのは、18歳になった頃だといいます。

藤中松雄さんの次男 孝幸さん「初めのうちはよう、読みながら涙がでよったですね。読むにつれ、そういうのを通り越しているから、ただ、おやじは自分としたら素晴らしい人間やなって」