■「ソ連兵に捕まった」と知る

着いた先は、鉄条網に囲まれた収容所でした。

「みんな日本に帰れると思っていたから、怒り出すもの、泣き出すものがいました。奥さんや子どもがいる人もたくさんいたから、大変な騒ぎだった。日本に帰りたい、帰りたいと」

横山さんたちはここで、シベリア鉄道の建設工事に駆り出されました。
季節は冬。マイナス45度の寒さの中でも、毎日、時には夜中まで仕事をさせられました。

■シベリア抑留とは

横山さんのように中国大陸で敗戦を迎えた日本兵や一部の民間人は、ソ連やモンゴルなどに2000か所以上あったといわれる収容所に送り込まれました。 

正確な人数はわかっていませんが収容された人は、60万人に上るともいわれています。
彼らは、冬にはマイナス40度にもなる極寒の地で、木の伐採や鉄道建設などの強制労働に駆り出されました。過酷な労働、貧しい食事で栄養失調になる人も多く、6万人が死亡したと言われますが、今もその実情は、正確には分かっていません。

抑留を命令したのは、当時のソ連の指導者、スターリン。第二次世界大戦でドイツとの長い戦争を戦ったソ連では、多くの国民が死に、国は疲弊していました。スターリンは、国を再建するための労働力として、日本人を使ったのです。


「まず森の木を伐採する。運んで枕木に加工する。重い鉄を持ち上げて、線路を敷く。それを寒い中でやらなくてはならない。防寒具も十分にもらえないし、何しろ寒くてじっとしておれないの。いつも動いていないと寒くて寒くて。特に夜中はマイナス60度にもなって、体が十分に動かない中での作業でしたから、危険もありました」

食事は、1日1回。小さなパンが一つに、飯盒(はんごう)一杯分のスープだけ。

「仕事はきつい、食べものはない。ただ、食べたい、食べたいとだけ思っていた。とてもではないが、先に希望を持つなんて考えられない毎日でした」

再現された当時の食事


過酷な労働と寒さ、飢え。次々と仲間が亡くなっていきました。

「夕べにしゃべっていた人が朝になると亡くなっている。そんなことがよくあった」

せめてもの弔いに横山さんは、お経をあげ続けました。

「誰かが亡くなると、お通夜のようにみんなで寄って、少しの間、私がお経をあげました。線香もないから、少々のタバコを燃やしてお別れする。みんな、亡くなった人を『気の毒だ、気の毒だ』と言いながら、一方で『次は誰だ?自分ではないか』という気持ちがある。次々に亡くなるのでだんだん神経も鈍っていった」

絵・中島裕


いつか日本に帰りたい。その日までなんとか生き延びよう。
淡い希望をもって、過ごす日々でした。

幸運にも横山さんは2年で帰国が許されました。

「帰れるぞって言われたときはそりゃ嬉しかったです。私は年が若かったのに、ソ連側の命令でお年寄りの人たちよりも先に帰ることになった。心の中では帰りたい帰りたいばっかり思っていたから、残された人たちの気持ちなんて考えずに帰ってきました」