■日本に帰っても“戦争”は続く

帰国後、教師として教壇に立ちましたが、シベリア抑留の体験について、話すことはありませんでした。

帰国後の横山さん


しかし、横山さんの中で、シベリア抑留は終わっていませんでした。

「向こうの夢をよう見ました。ロシア語で喧嘩している夢とか。向こうに友達を迎えに行ったような、そんな夢もみた。苦しんでいた友達に『はよ帰ってこい』という気持ちがありました」

自分だけが生き残り、友達を置いて先に日本に帰ってきてしまった。シベリアの夢を見続けたのは、罪悪感からでした。

絵・中島裕

「悪いことしたんじゃないんだけど、そういう気がするわけですよね。先に帰ってきたことが罪みたいに思えるわけやね」

帰国して30年以上がすぎた1983年。横山さんはソ連を訪問します。シベリア抑留で亡くなった人たちのお墓参りをするためでした。58歳でした。

ソ連の大地を踏みしめると、ホッとしたような、安らかな気持ちになったといいます。


「ここへきて、お墓の前に立つと安気になる。少しでも近くに来たということで気持ちが安らぐ。何しろ友達は22、23歳で死んでいるんだという気持ちが自分にはあるわけで。やっぱり一番心に残るのは、抑留の生活だもんで」

シベリアに心を残したまま戦後を過ごした横山さん。ようやく夢を見ることもなくなり、心休まる日々が訪れました。

■日本兵が、ロシア人にしたこと

しかし、追悼の旅を重ねるうち、横山さんは、ある事実を突きつけられることになります。

イワノフカ村郷土史博物館


アムール州、イワノフカ村。村の博物館には、ある記録が残されています。

イワノフカ村事件。

1917年、ロシア革命が起きると日本はその混乱に乗じ、シベリアに兵隊を出して反革命派を支援しました。「シベリア出兵」です。

このとき日本軍は、「日本軍に抵抗する軍隊を掃討する」として、イワノフカ村の住民を生きたまま小屋に閉じ込め、火をつけて虐殺したといいます。子供を含め、300人以上が犠牲となりました。

イワノフカ村事件の絵

この事実を知った横山さんは。

「シベリアに抑留された自分は被害者だとずっと思っていたけど、我々も加害者だったんだということが初めて分かりました。イワノフカでこんなひどいことをしとった。これは我々がひどい目にあうのも当たり前だと。日本はこんなに悪いことをしたのに、それを子どもたちに教えてこなかった」

以来横山さんは、毎年のようにイワノフカ村を訪れ、村人と交流を重ねてきました。

ウス元村長


イワノフカ村の元村長、ゲオルギー・ウス氏。横山さんと同じ95歳です。村長として長年、横山さんと交流を重ねてきました。ウスさんもまた、日本との戦争に参加しました。

「私は横山さんを非常に尊敬しています。彼は毎年イワノフカ村を訪れてくれます。彼も戦争を体験しました。私たちは、日本とロシア、両国の平和が大切だという意見で一致しています」


村の中心にある公園には、横山さんとウスさんたちが建てた、記念碑が建っています。

「反省と深い悲しみを込めて」

かつて日本がイワノフカ村で行ったことを反省し、一方でロシア側はシベリア抑留で多くの日本人を死なせたことを反省する。その両方の意味が込められています。

ウス元村長はいいます。

「私たちは同じ太陽、同じ空、同じ水、同じ空気を共有しています。人間は、毎日同じ太陽の光をいただいている。私が吐いた息をあなたが吸っている。お互いを訪問し、お茶を飲み、話をすることが一番重要なことです。若い人たちに言いたいのは『この世界を大切にして下さい』ということです。平和の中で生きて、この世界を大切にして下さい。歴史を決して忘れないで下さい。なぜならこれまでたくさんの人が犠牲になったのですから

イワノフカ村に建立された記念碑


日本で横山さんは、イワノフカ村事件を追悼する法要を毎年行っています。イワノフカ村の住民を日本に招いての交流も重ねてきました。

シベリア抑留とイワノフカ村事件。日本とロシア、お互いに深い傷跡を残した戦争。その記憶を大切にしたいと思っています。

「お互いに憎しみはあったかもしれん。でも交流を重ねれば、日本人、ロシア人という感じはお互いになくなっていきます。今度はお互いに自分たちのやったことを考えながら、新しい、戦争のない世界を築くために、はっきりと自信をもって生きていける道を選びたいと思っています。戦争は何にもならん。何の助けにもならん」