■ソ連が攻め込んできた日
軍隊に入って1年近くがすぎた1945年8月9日。ソ連(現在のロシア)が中立を破り、国境を越えて満州に攻め込んできました。その日のことを横山さんははっきりと覚えています。
「普通の朝でした。ところが非常呼集がかかって国境のほうへ行ったところ、橋がすでに壊されてなくなっていた。日本とソ連の間には日ソ中立条約があるんだから、攻めてこないだろうと思っていたので、びっくりしました」

ソ連兵が乗るトラックに爆弾を投げつけ、抵抗を続けた横山さん。そのまま8月15日の終戦を迎えます。しかし。
「私たちの部隊は24日まで知らなくてずっとソ連兵を相手にゲリラ戦をやっていました。24日に私が伝令として中隊に行ったら、『日本は15日に降伏した。26日に部隊を解散する』という指令を受けたので、戻ってその通りに報告したら誰も信用しない。『お前はスパイだ』と。仕方がないから別の人間を伝令で出したらまた同じことを聞いてきたので、これは間違いない」
■“終戦” すれ違ったソ連兵に捕まり…
横山さんの部隊は26日に「解散」します。中隊長ら幹部は白旗を掲げソ連軍へ投降。200人近くの兵隊は武器を捨て、マッチと塩、そしてわずかばかりの食料をもらって、山のなかで「解散」となりました。
「私は5人一緒に山を下りました。兵隊の格好は目立つから、農民の服を着て、満州人の帽子をかぶって歩いていたが、ソ連兵とすれ違う。向こうは日本人も満州人も区別がつかないから『ミカド』とか『ハラきり』などの言葉を投げかけて、我々の反応を見る。『日本人か』と聞いてくる。私らはぽかんとした顔をして、知らん知らんと首を振っていました」
「ところが延吉という町まで来たとき、後ろから『こら日本人!』と言われて思わず振り返ってしまった。それでソ連兵に捕まってしまいました」
ソ連兵は横山さんたちに「トーキョーダモイ(東京へ帰る)」と言っていたといいます。その言葉を信じて10日間歩かされ、日本海に面したウラジオストク近くの町まで移動しました。
この道中ではじめて、日本の敗北を痛感したといいます。

「道端や田んぼや沼の中、あちらこちらで日本兵が死んでいた」
横山さんは、死体を見るたび、拝みながら歩き続けました。
忘れられないのは、満州で暮らしていた日本人の姿です。
「女性や子どもたちが『兵隊さん助けて』というわけ。でも自分たちも捕虜になっているのでなんともならん。持っている食料を渡して別れたんですけどそれは本当に気の毒で。今から思うとあの人たちはみな亡くなったんだろうなと思う。今でもよう忘れんわね。かわいそうで」

ウラジオストク近くの町についた横山さん。しかし、日本になかなか帰れません。ソ連兵は「日本から船が来ないから」と繰り返し、1か月そこに留め置かれました。
「今思うと日本兵の捕虜を何十万人も集めて、ソ連のあちこちの収容所に振り分ける作業をしておったんでしょう」
1か月後、汽車に乗せられた横山さん。しかし、汽車は日本とは逆の、西に向かって走り出しました。逃げようとする人は容赦なく撃ち殺されたといいます。

















