小川:
「それはどうして?」
李さん:
「早くそこの現場を離れようとすると同時に、そういうときは助けなきゃいけないという気持ちがわかなきゃいけないのに、全然その気持ちがわかないんですね」。
小川:
「ご自身のことで必死で?」
李さん:
「逃げようとするのに一生懸命で」。
自宅まで、16キロの道のりを歩いたそうだ。
母親とようやく再会できたときのことを話し始めると、李さんは、声を詰まらせた。

■私が被爆体験をお話しすることはずっとなかった
李さん:
「『生きていたか』と私を抱きしめてわいわい泣くんですけども、韓国語で『アイゴー』という言葉があるんですね。喜怒哀楽を表すときにいろいろ使うんですが、そういうときの『アイゴー』というのが、ものすごく胸にしみるんですね。その時を考えると…すみません…この歳になってもあの言葉が、まだ頭に残って…もう悲壮なあの言葉で私を抱きしめて泣くんですけど、私も一緒につられて良く泣きました」。
その後、李さんは4か月、ほとんど家にこもりきりに。
やけどにはウジがわき、原爆の放射線による下痢や嘔吐にも襲わた。
毎日毎日…もだえ苦しみ続ける李さんの姿を見るに堪えず、母親の口から、こんな言葉もこぼれたと言う。
李さん:
「寝ようとしても痛くて眠れないんですよ。朝になって私の顔を見ながら母が『このまま生きてもどうしよもないじゃないか。人間じゃないよ』と。『チュゴ』という韓国語の言葉があるんですが、『早く楽に死ねよ、楽になれよ』と。『チュゴ』という言葉が私のこの胸にどきっと刺さるような状態でしたけども、本当に死ねという意味じゃなくて『苦しいだろう、出来れば早く楽になれよ』という、母の気持ちだったと思うんですよね」。

「首の後ろのやけどしたところがだんだん腐ってきます。物凄い膿がでてきてウジ虫がわきました。私は被爆体験を話すのが嫌だった一番の理由は、このウジ虫の話です。生きた人間の身体にウジ虫がわく。そういうことは人には言えません、恥ずかしくて。それと在日という、2つの自分の気持ちの中での差別、人にこんなことを言えるわけがない。私が被爆体験をお話しすることはずっとなかったんです」。
回復のきっかけは、近所の高齢夫婦にもらった「植物性の油」だったと言う。