■「とにかく死体ばっかりだった」当時5歳の被爆者が訴える“核廃絶”

77年前の8月9日。アメリカ軍によって、2度目の原爆が投下された、長崎市。

木戸さん
「飛行機の音がワーっと聞こえた。それを見上げた瞬間ですね、“ピカドン”。まさにピカドン。この辺がちょうど、ピカドンってなるぐらいですね」

当時5歳だった木戸季市(きど ・すえいち)さんは、爆心地からおよそ2キロ南の路上で被爆し顔の左半分にやけどを負った。

木戸さん
「とにかく死体ばっかりだったというのを覚えてる。水を求める人が、ここで川に入って息絶えた。やっぱりこんなことがあってはならないというか、信じられないというかそういう気持ちが強かった」

戦後は、被爆者である事実を公に語ってこなかった木戸さん。50歳のときに一念発起し、国の内外で核の廃絶を訴えてきた。

その思いが実を結び、2017年には核兵器の開発や保有などを全面的に禁じる“核兵器禁止条約”が成立。現在、66の国と地域が批准しているが、日本は「アメリカやロシアなど核保有国が参加していない」という理由で、署名を見送っている。

6月、核兵器禁止条約の初の締約国会議が開かれたウィーンで長崎の被爆者・木戸季市さんは訴えた。

木戸さん
「被爆国・日本政府は、圧倒的多数の国民の願いに反して核兵器禁止条約に署名・批准していません。戦争と武力の威嚇行使を永久に放棄する、日本国憲法に反する政策です」

憲法9条の精神に則り、全ての国際紛争は、武力ではなく“対話”で解決されるべきだと強調した。

しかし、ロシアのウクライナ侵攻を機に、世界が再び核の脅威に晒されていることに、これまで以上の危機感を抱いていると、木戸さんは語る。

木戸さん
「私の言い分を聞けと。そういうことだから、核抑止論は別の言い方をすると、“核脅し論”だと。原爆によって終戦したんだという発想でいけば、核抑止論が蔓延る理由が、戦前の戦争に対する反省不足。やっぱり事実を見ていないということだと、僕は思います」

■「もういっぺん、広島、長崎の惨状を再現するんか」被爆国として歩むべき道は

平岡敬(たかし)さん94歳。新聞記者として、広島市長として、様々な立場で被爆地・広島を生きてきた。いつも心に置いていることがある。

元広島市長 平岡敬さん
「死者の声を絶えず忘れないで生きていきたいなと思ってきましたね。そういうものを絶えず思い起こすことによって、私たちの鈍りがちになる平和への意思というか、自分の意思を鍛え直すということが非常に大事だと思います」

その意思は、この場所から毎年読み上げた8回の平和宣言に込められた。

元広島市長 平岡敬さん
「私はあれは一つの記録だと思ってますから。」

1997年、被爆地・広島の市長として初めて政府の矛盾を指摘し大きく注目された。

1997年平和宣言 広島市長 平岡敬さん(当時)
「広島は、日本政府に対して核の傘に頼らない安全保障体制構築への努力を要求する」

平岡さんには忘れられない経験がある。核実験間近のインドを訪問し、実験中止を要請したときのことだ。

元広島市長 平岡さん
「我々は目の前のインド洋、第7艦隊が核を積んでうろうろしている。背後には中国が核を持っている。隣のパキスタンはいま核開発してる。ですから、我々は核実験をして核を持つんだとはっきり言いました。お前さん核の傘の下で、のうのうとしてるじゃないかと。核の傘から出て、言うんだったら出て言え、と。ぐうの音も出なかった。核の傘に守られて他国に行って、核を持つなと言っても相手にされない」

昨今の核共有や核武装論を前に、核の非人道性を忘れてはならないと強調する。

元広島市長 平岡敬さん
「核というのは人を殺すために開発された。被爆者は放射線によって殺され続けているという認識が必要。核の威力は77年経っても、人の体の上に殺しを続けている。核のない世界と言うと、”現実的でない”と必ず言われますけどね、そうじゃなくて、現実的でないのは核武装論。使うために装備するわけですよね、使うぞと相手を威嚇するために。こちらが使えば相手も使いますから。もういっぺん、また広島、長崎の惨状を再現するんか」

そして、あらためて被爆国として歩むべき道を問う。

元広島市長 平岡敬さん
「核を持てば本当に一流国になるわけじゃない。問題はやはり国の品格というか、格差のない、暴力のない、差別のない、そうした社会を作っている国が、一流国って言われるんだろうと思います」

(報道特集 2022年8月6日放送)
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