遺体安置所の隣に食堂「生と死の境がなくなる」

現在、防災士として活動する齋藤幸男さんは宮城県塩釜市出身の69歳。東北大学の非常勤講師も務め、防災教育に力を入れている。

石巻西高校のある東松島市を襲う津波(2011年撮影)

2011年3月11日、東日本大震災発生。石巻西高校はその日授業がなく、部活動と自習の生徒がいたため、教職員とともにグラウンドに避難した。当時の映像には笑い声も聞こえ、まだ事態の重さを理解できていなかった。

「目の前の田んぼが一面黒い海のような状態になりました。生活用水などが混ざって臭いもきつい」

石巻西高校の校門前 街は泥と海水に浸かった(2011年撮影)

遡上してきた津波があふれ一帯を水浸しにした。石巻西高は災害時の避難所に指定されていなかったが、不安を抱えた地域住民が車で殺到。現場指揮のトップだった教頭の齋藤さんは「学校はみんなにとって特別な場所」として避難者の受け入れを決め、教員たちは交通整理と教室の解放に追われた。

地域住民が続々と避難 教職員は交通整理に追われた(2011年撮影)

一方、警察からは「仮の遺体安置所として使わせてほしい」と依頼があり、次々と遺体が体育館に運び込まれていく。

遺体を運び込む自衛隊員(2011年撮影)

「むこうにブルーシートで囲われた遺体が安置されている体育館。こっちがご飯を食べる食堂です。生と死の境界がなくなるということなんですよね」

死者を受け入れる場所と生きるための食事をする場所が隣り合う現実。最大約400人の避難者との避難所運営は44日間続いた。