サプライズとなった米財務省の国債バイバック増額
米財務省は8月19日、長期・超長期国債を対象とする流動性支援目的のバイバック(買い入れ)オペレーションの規模を大幅に拡大すると発表した。
対象となるのは10~20年ゾーンおよび20~30年ゾーンの国債であり、これまで1回当たり20億ドルとしていた買い入れ上限を少なくとも40億ドルへ倍増する。財務省は、市場流動性の改善を目的とした技術的対応であると説明している。もっとも、市場はこれを単なる流動性対策とは受け止めなかった。発表前日には30年国債利回りが5.34%まで上昇し、07年以来の高水準を付けていたからである。発表後には長期金利が低下しており、市場は今回の措置を事実上の長期金利抑制策として評価したとみられる。
今回の決定が市場のサプライズとなった理由は、その内容だけではない。発表タイミングも極めて異例だった。通常であれば国債発行計画や買い入れ方針の見直しは四半期定例入札(Quarterly Refunding)の場で示される。しかし今回は、その日程とは無関係なタイミングで突然公表された。
もっとも、兆候がなかったわけではない。前回の四半期定例入札では、将来の発行方針に関するガイダンスにおいて、それまで用いられていた「増額(increase)」という文言が「変更(change)」へと修正されていた。この変更自体は小さく見えるものの、市場では重要なシグナルとして受け止められた。これまでの財務省は、将来的な国債発行額の増加を前提とするスタンスを維持していた。しかし、「変更」という表現に置き換えたことで、超長期債の発行額を削減したり、短期債に資金調達をシフトしたりする余地を示唆したとの解釈が広がったのである。今回のバイバック増額は、その流れを具体化した政策対応と位置付けることができるだろう。
イエレン時代にも行われたバイバックの活用
今回の政策対応は、全く新しい発想ではない。むしろ、その原型はイエレン前財務長官の時代に見ることができる。
23年以降、FRBが量的引き締め(QT)を継続する一方、米国では大型財政赤字が続き、国債発行額が急増した。市場では長期・超長期国債の需給悪化が強く意識され、タームプレミアムの上昇圧力が高まった。こうした状況に対し、財務省(当時の財務長官はイエレン氏)は23年8月からバイバックの検討を始め、24年1月に詳細を公表、24年5月に正式決定した。
今回のベッセント財務長官によるバイバック増額も、本質的なメカニズムは同じである。財務省が市場から長期・超長期国債を買い戻したとしても、財政赤字が減るわけではない。そのため資金調達の穴埋めとして短期国債発行を増やす必要があるだろう。市場に供給される国債総量(および供給されるマネーの量)は変わらないが、市場が消化しなければならない金利リスク量は減少する。
重要なのは、この政策が量的緩和(QE)と似た効果を持つことである。QEでは中央銀行が長期国債を買い入れることで市場から金利リスクを吸収し、リスクプレミアムを縮小させる。今回の財務省のバイバックは、市場全体のマネー供給量を増やすわけではないため厳密にはQEではない。しかし、投資家が引き受けなければならない長期金利リスク量を減らすという意味では極めて類似した効果を持つ。
例えば、銀行などが保有する長期・超長期国債が短期債へと置き換われば、ポートフォリオ全体のデュレーションは短くなる。そうなれば銀行のリスク許容量には余裕が生まれ、新たに長期国債を購入しやすくなる。その結果、市場では長期国債への需要が強まり、バイバックによって供給が減った長期ゾーンに金利低下圧力が生まれる。今回の措置は、まさにタームプレミアムの圧縮を狙った政策と位置付けられる。
ベッセント財務長官が急いだ理由
もっとも、今回のベッセント財務長官の対応はイエレン時代と比較してもかなり迅速であった。
その背景として考えられるのは第一に政治的要因である。中間選挙を控える局面で長期金利が急上昇すれば、住宅ローン金利や企業の資金調達コストが上昇する。景気に悪影響が及べば政権への打撃となるため、長期金利上昇を放置する余裕は小さい。
第二に、今回の需給悪化の背景が従来とは異なっていることである。足元の長期金利上昇は、財政赤字に伴う国債供給増加だけでは説明しきれない。AI投資ブームを背景に、ハイパースケーラーや半導体関連企業による大規模な社債発行が見込まれているためである。国債市場と社債市場は同じ投資家層を巡って資金を奪い合う。巨額の社債発行は長期金利上昇圧力として作用する。つまり現在の金利上昇は、「財政赤字による国債供給増加」と「AI投資による社債供給増加」が同時に起きることで生じている面がある。
さらに問題は、AI投資に対する期待が崩れた場合である。7月FOMC議事要旨では「金融安定に関する議論において、一部の参加者(some participants)は、急速に進むAI関連インフラ構築の資金調達に伴う脆弱性に焦点を当てた」「評価が大幅に下方修正されるリスクがあり、それによって広範な資産価格の再評価(repricing)が生じ、金融環境がより引き締まり、その分野に直接または間接的にエクスポージャーを有する金融機関にストレスをもたらす可能性があると述べた」(筆者訳。以下同)とされていた。AI・半導体セクターの信用収縮に波及するリスクを考えれば、ベッセント長官が早期対応を選択したことは理解できる。AI投資ブームと債券市場の安定は、金融安定という観点から決して無関係ではないのである。
焦点はFRBへ - 利上げよりも利下げの議論が生じやすい
今後の最大の焦点はFRBの次の一手である。
今回のバイバック増額は、ベッセント財務長官が需給悪化による「悪い金利上昇」を問題視していることを明確に示した。FRBも同様の問題意識を共有している可能性が高い。
市場ではまず、「FRBが利上げによって長期金利を抑制するのではないか」という見方が浮上するかもしれない。一見すると奇妙な議論だが、理論的には十分あり得る。長期金利は将来の短期金利予想とタームプレミアムによって構成される。中央銀行が利上げを実施し、インフレ期待を沈静化させれば、市場は将来の物価上昇リスクを小さく見積もるようになる。その結果、長期のインフレプレミアムが縮小し、長期金利の上昇圧力が抑制されることがある。
例えば日本では、長期金利上昇の一部は中長期的なインフレ懸念によって説明できる。この場合、予防的な利上げはイールドカーブのフラット化を通じて長期金利の抑制につながる可能性がある。
しかし、現在の米国はそうした状況にはない。
7月FOMC議事要旨では、「参加者は、中長期のインフレ期待に関する市場ベースおよび調査ベースの指標は、委員会の2%目標と整合的な水準にとどまっていると評価した」「大多数の参加者(most participants)は、関税および過去のエネルギー価格上昇の影響が薄れるにつれ、年後半にはインフレ率が低下すると予想した」とされていた。その後に公表された物価指標も比較的弱い内容となっており、FRBは市場のインフレ期待上昇を問題視しているとは考えにくい。
そうすると、仮に利上げによって長期金利が低下したとしても、その理由はインフレ懸念の低下ではなく景気後退懸念になる。
現在問題視されている長期金利上昇の主因は、需要超過によるインフレではなく、国債供給や社債供給の増加によるタームプレミアムの上昇と考えられる。その状況下でFRBが利上げを行えば、短期金利の上昇を通じて金融環境が引き締まり、株価下落や信用スプレッド拡大をもたらすだろう。投資家は将来の景気悪化と利下げを織り込み、結果として長期金利は低下するかもしれない。しかし、それはリセッション懸念による長期金利低下である。景気悪化につながる可能性のある「悪い金利上昇」を抑制するために、政策的に景気悪化を引き起こして金利低下を促すとすれば、それは完全に本末転倒である。
このように考えると、FRBが長期金利を引き下げるためにタカ派化する可能性は高くないだろう。
では、利下げを実施することでイールドカーブ全体を引き下げ、長期・超長期金利を低下させることはできないだろうか。株式市場が低迷し、緩やかに景気悪化懸念が強まる状況では、利下げをした方が長期・超長期金利を安定的に下げることができるだろうと、筆者はみている。もっとも、FRBは早期にハト派化することで落ち着いているインフレ懸念を再燃させることも避けたいだろう。そのように考えると、FRBは容易に政策を決めることはできず、まずは利上げを封印し、利下げの可能性を探りながらも、様子見姿勢を続けていくことになるだろう。
それともNotQEか、IORB引き下げか
さらに焦点になりそうなのはバランスシート政策である。
ウォーシュ議長は量的緩和に否定的とされるが、財務省が短期国債発行を増やせば、短期市場には金利上昇圧力がかかる。その結果、FF金利やSOFRが政策誘導レンジから乖離するリスクが生じる。その対応として、FRBが短期国債の買い入れに迫られる可能性はあるだろう。
実際、FRBは25年12月に、短期金利の安定化を目的として短期国債を購入するいわゆる「NotQE」を導入した。FRBは金融緩和ではなく市場機能維持策と説明したが、市場には実質的な量的緩和と受け止める向きもあった。今回も同様に、FF金利安定化を目的とする短期国債買い入れ増額が議論される可能性がある。NotQEの解釈は様々であり、FRBのバランスシートが大きくなったとしても、短期国債中心であれば金融緩和効果は小さいという評価となり、ウォーシュ氏が受け入れる可能性はある。しかし、財務省がバイバックを行いながら短期国債を増発し、FRBがその短期国債を購入するという政策をセットで考えると、それはほとんど量的緩和政策(QE)である。ウォーシュ氏を中心としたFRBの決定に注目が集まる。もっとも、現状では25年12月のNotQEの効果もあって、FF金利やSOFRは安定している。FRBがすぐに結論を出すことはないだろうと、筆者はみている。
もちろん、FRBがバランスシート拡大を避けたいのであれば、IORB(準備預金付利金利)を引き下げるという選択肢もある。IORB引き下げによって銀行がより低い金利で資金を市場に供給するインセンティブが高まれば、短期金利を安定させることが可能である。しかし、それは実質的には利下げと同じ効果を持つ。
結局のところ、今後市場が注目するのは、「FRBがいつハト派方向へシフトするのか」という点になるだろう。NotQEは事実上の量的緩和であり、IORB引き下げは事実上の利下げである。このように考えると、いずれにしても、市場のテーマはFRBのハト派化にシフトすることになるだろう。
(※情報提供、記事執筆:大和証券 チーフエコノミスト 末廣徹)