持続的な雇用拡大に向けた中長期的な方向性

インドの労働市場が抱える構造的課題として、(1)産業転換の遅れ、(2)女性の労働参加を阻む環境上の制約、(3)非公式雇用の固定化と社会保障の不足が指摘される。

前章では政府の政策対応を概観したが、こうした施策は一定の前進を示すものの、構造的課題の克服にはなお距離がある。本章では、持続的な雇用拡大に向けた中長期的な方向性を検討する。

<構造課題への対応>

(1)産業転換の促進

持続的な雇用拡大の要となるのは、非農業部門、とりわけ製造業や近代サービス業における高付加価値雇用の創出である。

インドでは(1)製造業の雇用吸収力の低下、(2)地方都市の産業基盤の弱さ、(3)中規模企業の不足といった構造的要因によって、産業転換が進みにくい状況が続いており、これらに対応するには、以下の三つの方向性が重要となる。

第一に、労働集約型産業を中心とした雇用吸収力の高い製造業の育成である。

インドでは繊維・アパレルなどの労働集約型産業の比重が縮小しており、製造業全体の雇用創出力が弱くなっている。このため、成長分野への集約的な支援とともに、労働集約型部門の競争力強化が必要となる。

第二に、地方都市・中規模都市を含む産業集積の形成である。

大都市圏に雇用機会が集中する現状では、農村からの労働移動が地理的・経済的制約によって制限されやすい。そのためには、地方都市でのインフラ整備や産業クラスターの育成、投資環境の改善を通じて、企業立地の選択肢を広げることが重要となる。

第三に、中小企業の成長促進を通じて、労働吸収力の底上げを図ることである。

インドの企業分布は極端な「小規模偏重」であり、多くが非公式部門に属する。技術導入や金融アクセスの改善、事業拡大を阻む規制の緩和など、中小企業が成長軌道に乗りやすい環境を整備することは、労働需要の拡大に直結する。

産業転換の過程では、労働集約型部門での雇用吸収と、高付加価値部門の成長を並行して進めることが重要である。

こうした段階的な進展を通じて、労働力の移動や雇用の質的改善が本格化し、女性の就業改善や非公式性の縮小にもつながる。

(2)女性の就業改善に向けた環境整備

女性の労働参加率は近年上昇しているものの、その多くは農村部の自営業や家族経営に基づく補助的な働き方といった低生産性部門に集中している。

教育水準の向上は一定の効果を持つが、(1)家族・社会の価値観や役割期待、(2)通勤時の安全性や移動手段の制約、(3)保育サービスや企業側制度の不足といった複数の要因が重なり、制度的保護のある賃金労働への移行は限定的である。

女性が働きやすい環境を整えるには、生活面・制度面の双方で条件を段階的に改善することが不可欠である。

具体的には、通勤時の安全性を高める交通インフラの充実、保育サービスの拡大、柔軟な働き方や育児休業制度の普及といった取組みは、女性がより希望する就業に踏み出しやすい条件を整える。

また、これらの変化は家族や地域社会の受け止め方にも影響し、長期的には価値観や役割期待の変化を促す契機にもなりうる。

さらに農村部では、利用できる職種や働き方そのものが都市部より限られるという構造的制約が残る。

自営業支援にとどまらず、職業訓練の充実や都市部の雇用市場との接続強化を進めることで、農村女性が選択できる働き方の幅を広げる取り組みが求められる。

こうした取り組みが進むことで、女性が低生産性部門に集中しやすい構造を徐々に緩和することが期待される。

(3)非公式雇用の公式化と社会保障の拡大

インドの非公式雇用比率は国際的にみても高い水準にあり、雇用の質的改善を阻む大きな要因となっている。

ただし、「公式化(formalization)」はそれ自体が目的ではなく、企業が安定雇用を提供できる状態が整ったときに自然に進む「結果」として捉える必要がある。企業体力が弱い段階で公式化を強制すると、負担増によりむしろ非公式化が進む可能性もある。

このため公式化を進めるには、(1)企業体力の向上と社会保障制度への参加余力の確保と、(2)制度運用の透明化や手続き負担の軽減、という二つの条件が欠かせない。

2025年11月の労働法典施行により、ESIやEPFを含む社会保障制度の枠組みが再編され、制度基盤は中央レベルでは一定程度整備されたものの、その制度が実際に機能するかどうかは州政府の規則制定や企業側の運用体制に左右される。

特にインドの社会保障制度や労働規制は企業単位ではなく事業所単位で適用されるため、零細事業所ほど遵法負担が相対的に重く、制度参加が進みにくい要因となっている。

制度の効果を十分に引き出すには、州レベルでの運用体制整備と、事業所レベルでの遵法負担の軽減が不可欠である。

制度運用では、事業所登録と社会保険加入を促すインセンティブの強化に加え、労働法典で整備された任命書の交付や最低賃金制度が確実に機能するよう、最低限の制度の実効性を確保するための執行体制の改善が求められる。

また、ギグワーカーや個人請負労働者など曖昧な働き方が広がるなか、制度運用の遅れにより社会保障の枠組みに入りにくい状況も続いている。これら多様な働き方に応じた保護のあり方を整備していくことが、今後の課題となる。

<制度基盤の方向性>

(4)デジタル基盤(DPI)の活用

デジタル公共インフラ(Digital Public Infrastructure:DPI)は、労働市場制度の運用を支える基盤として重要性が高まっている。

とくに、Aadhaar、e-Shramポータル、国家雇用サービス(National Career Service:NCS)は、それぞれ異なる役割を担いながら相互補完的に機能している。

まずAadhaarは全国共通の本人確認基盤として、社会保障給付や補助金支給の適正化を支える「IDインフラ」である。

これを基礎に、e-Shramポータルは非公式労働者の登録・属性情報を一元管理する全国データベースとして機能し、社会保障制度の対象把握を可能にしている。

さらにNCSは職業紹介、求人・求職のマッチング、キャリア情報の提供を担い、労働市場情報を整備する「雇用サービス基盤」として位置づけられる。

このように、Aadhaar(ID)→ e-Shram(労働者データ)→ NCS(雇用マッチング) の三層構造がそろうことで、労働法典で定められた制度を現場で運用するための基盤が整う。

DPIの活用は、社会保障制度の紐づけ、労働監督の透明化、企業登録の簡素化などを通じて公式化のプロセスを後押しし、包摂的な労働市場の構築に向けて中核的役割を果たす。

(5)国家労働・雇用政策(Shram Shakti NITI 2025)による統合的アプローチ

Shram Shakti NITI 2025は、政府が2025年に初めて示した包括的な国家労働・雇用政策であり、従来は個別に進められてきた労働・雇用分野の施策をまとめて位置づける最上位の方針である。

本政策は、雇用創出、スキル強化、社会保障拡大、公式化、女性の就業改善といった課題を横断的に扱い、関連する政策領域を一体的に整理する枠組みを提示している。

また、労働法典による制度改革(法的基盤)と、DPIによるデジタル運用基盤を連動させて活用する方向性が示され、労働市場制度を総合的に再設計するための視座が明確になった。

(6)総括

インドは人口ボーナスを享受する潜在力を有しているが、その効果を十分に引き出すには、労働供給の量的拡大に加えて、雇用の安定性や社会保障へのアクセス、そして低生産性部門からの移行といった質的な改善を伴うことが不可欠である。

そのためには、(1)産業転換の遅れ、(2)女性の就業を阻む環境的要因、(3)非公式雇用の固定化と社会保障の不足という三つの構造的課題に対し、着実に改善を積み重ねていく必要がある。

政府の施策は、こうした課題への対応に向けた基盤を形成している。

2025年11月の労働法典施行により、社会保障や労働条件に関する制度基盤は前身したものの、制度の実効性は州政府の規則制定や事業所レベルの運用体制に大きく左右される。

産業・環境・制度の三側面にわたる方向性は、これら構造的課題に取り組むための中長期的な視座を提供するものである。

さらに、Aadhaar・e-Shram・NCSといったデジタル公共インフラ(DPI)は、社会保障給付や雇用サービスの運用を支える基盤として既に重要な役割を果たしている。

Shram Shakti NITI 2025 が示した統合的な政策枠組みは、こうしたデジタル基盤と制度改革を連動させることで、制度運用の改善を後押しし、人口ボーナスを成長につなげるための推進力として機能することが期待される。

(参考文献)
Government of India (2023), Periodic Labour Force Survey (PLFS) Annual Report.
United Nations (2024), World Population Prospects 2024.
Dubey, A. & Bhandari, L. (2025), India at Work: Employment Trends in the 21st Century, Centre for Social and Economic Progress (CSEP).
Ghosh, N. & Bardhan, A. R. (2025), Growth in India: Jobless or Job-Full? Observations from Empirical Data, ORF Issue Brief No. 792.
Kotera, S. & Xu, T. (2023), Unleashing India’s Growth Potential, IMF Working Paper WP/23/82.
Ministry of Labour & Employment (2025), Shram Shakti Niti 2025 – National Labour and Employment Policy of India.

※情報提供、記事執筆:ニッセイ基礎研究所 経済研究部 准主任研究員 斉藤 誠

※なお、記事内の「図表」と「注釈」に関わる文面は、掲載の都合上あらかじめ削除さ