(ブルームバーグ):人生を狂わせた運命の取引から4年。澤田拓士氏はタバコの臭いが漂う都内のカフェに陣取り、世界に向けて自身のストーリーについて発信を始めた。
野村ホールディングス(HD)傘下の野村証券は、日本国債先物の取引で約定を意図しない見せ玉を出してはキャンセルする「レイヤリング」を行ったとして、国債取引を統括していた澤田氏を解雇した。同社は昨年、相場操縦を認めて2176万円の課徴金を支払ったほか、国債市場特別参加者(プライマリーディーラー)の特別資格を約1カ月間失った。

国債取引に関して高い知見を持つ澤田氏だが、相場操縦を行ったとの烙印を押されたことで、ヘッジファンドなどによる国債の取引が活発化する中でも職を得られずにいる。仕事を見つけられないままカフェ「ルノアール」からノートパソコンを使い株の取引を行っていたが、区切りをつけなければ次の一歩を踏み出せないと悟った。
匿名、かつ野村証券という社名も一切挙げずに自分は何も間違ったことはしていないとの主張をSNS投稿サイト「note」に掲載した。投稿には国債のトレーダーしか知りえないような詳細な情報がちりばめられており、投稿しているのは澤田氏との認識が狭い業界内にすぐに広まった。事情に詳しい2人が投稿者が澤田氏であると認めたが、本人はコメントを控えている。
「いざ会社から放り出され、かつ同じ職には就けないという状況になったとき、自分ができることは限られていると気付かされた」、「特にチャレンジしたい仕事も思い付かず、自分でやりたい事業・ビジネスアイデアがある訳でもない」。澤田氏はnote上でそうつづった。
金融機関が法律違反の疑いがある社員を解雇することは珍しくないが、汚名返上にかける澤田氏の主張は投稿の長さとその詳細において際立っている。不正行為への関与を否定する同氏の姿勢は、2020年に米シティグループから解雇された後、5年間に及ぶ裁判で不当解雇の判決を勝ち取ったケン・オオタカ氏に重なる。
しかし、オオタカ氏とは異なり澤田氏は訴訟には踏み切らなかった。法的に争っても勝算はほとんどないと判断したためだ。そのかわりに、自身の思いを吐露するために匿名SNSへの投稿という手段を選んだ。
複数の関係者によると、一連の投稿は在京の金利トレーダーの間で一瞬で広まった。投稿のリンクが飛び交い、わずか数日で業界内の多くが投稿を目にした。
自嘲的に「便所の落書き」と称した投稿には、21年3月9日の出来事が克明に記されている。問題となったのは澤田氏が大阪取引所の長期国債先物市場で行った複雑な一連の取引だ。証券取引等監視委員会は野村証の従業員が「スプーフィング」の一種であるレイヤリングと呼ばれる手法を用いて市場を操作したと指摘する。これは、供給と需要について他の市場参加者を誤認させるために偽の注文を出して有利に取引を進める手法だ。
監視委によると、当該トレーダーはレイヤリングと見られる注文の約98%をキャンセルした。その日の最良気配から数えて5段階目までの水準の注文の平均47%以上、時には70%近くをそのトレーダーからの注文が占めていたという。澤田氏自身も「この数字だけを見ると『これはやってますね』という結論になるのだろう」と投稿している。
違反ではないと主張
しかし、澤田氏は先物市場での取引は当日に実施された5年物国債の入札と密接に関係しており、法律違反ではないと反論している。野村証が落札した国債の価格変動リスクをヘッジするために先物を用いたという主張だ。プライマリーディーラーとして参加義務のある野村証は3月9日、入札総額の約4分の1に相当する5945億円分の国債を財務省から購入した。このうち澤田氏が400億円超を購入したという。

入札結果から国債への需要は弱いと判断した澤田氏は、5年物国債を市場で売却するのは困難と判断。額面190億円相当の債券先物を売却した。また、同氏のトレーディングデスク全体でもヘッジが必要だったため、追加で500億円程度の売り注文を出した。
ところが予想に反し債券市場は堅調に推移した。他の市場参加者が5年物国債の買い注文を出し始めた。そこで澤田氏は方針を転換し、未決済だった先物の売り注文の取り消しを開始したと回想している。その後、保有する5年物国債を業者間市場で売却し、額面190億円相当の先物の売りポジションも全て買い戻した。
監視委は澤田氏の先物取引に着目。野村証への課徴金納付命令を勧告する文書には入札や現物市場での取引に関しては言及しておらず、当日の長期国債先物市場における注文の取り消し率や占有率が記載されていた。
分かれる評価
澤田氏の投稿を読んだトレーダーたちの評価はさまざまだ。先物市場での占有率の高さなどから市場操作のように見え、澤田氏の行動は軽率だったとの指摘がある。一方で、現物の債券購入後に保有に伴う価格変動リスクを回避するために先物を使うのは一般的であるため、澤田氏の主張には一定程度信ぴょう性があるとの声もあった。
さらに、ルール自体が曖昧で誰もが不意にルールに抵触して職を失う可能性があるとの意見もあった。唯一共通しているのは、この事件により澤田氏が今後新たな職を見つけるのは容易ではないだろうとの見方だった。
かつて米金融機関バンク・オブ・ニューヨーク・メロン(BNYメロン)で通貨トレーディングの責任者を務め、現在は取引会社コルコバード・インベストメント・アドバイザーズを運営するジョセフ・パッチ氏は「表面上は確かに悪く見える。98%のキャンセル率、支配的な市場の占有率、レイヤリングのような注文はすべて警戒信号になる。まさにそういったものを取り締まるために監視システムは設計されている」と指摘する。一方で、債券価格の下落リスクに備えたヘッジとの主張は、国債の取引量を考慮すれば「理にかなっている」とも述べた。
パッチ氏は「現実には、国債先物のような非常に流動性の高い市場では、積極的なマーケットメーキングと違反行為をリアルタイムで見極めるのは難しい」とし、「最も重要なのは意図、文書化、そして経済的合理性に欠ける継続的なパターンが存在するかどうかだ」との見解を示した。
各国が取り締まり強化
各国の規制当局は数十年にわたりスプーフィングの取り締まりを強化している。米国の規制当局は10年に金融規制改革法(ドッド・フランク法)で違法と定義し、バンク・オブ・アメリカは23年、米国債市場でのスプーフィングへの関与で2400万ドル(約35億円)の罰金を支払った。トロント・ドミニオン銀行も同様の訴えで2000万ドル超を支払った。
米国ではスプーフィングにより企業がこれまでに支払った罰金の合計は10億ドルを超えており、トレーダーが収監された事例もある。日本では金融庁が19年にシティグループに対し、長期国債先物取引での相場操縦で課徴金の支払いを命じた。
野村証にとってもこの相場操縦事件は、過去の情報漏えいやアルケゴス・キャピタル・マネジメントの破綻に伴う数十億ドルの損失など、近年相次いだスキャンダルに続く痛手となった。監視委が課徴金勧告を出したことを受け、複数の企業や自治体が引き受け主幹事から野村証を除外した。
同志社大学法学部の川口恭弘教授(商法)は、スプーフィングは他の市場参加者の取引を誘う意図があったかどうかを立証する必要があるため事案の取り扱いは難しいと指摘する。野村証の件に関しては詳細な情報を持っていないとした上で、「誘引目的というのは目的なので内心の問題になる」と説明。他者の取引を引き込む意図があったかどうかというのは当事者にしか分からないため、自白がなければ「状況証拠によって固めていくしかない」と述べた。
日本取引所グループで市場の取引を監視する自主規制法人は、21年3月9日の取引に関心を寄せたという。澤田氏によると、社内でそのような報告を受けて誤解を招く可能性のある取引であったことを認識。先物の注文件数に上限を設けたり、課内で相互に監視できるようなモニタリング体制を整えたりするなど再発の防止に努めたと投稿している。
総合的に勘案
監視委の関係者は個別の案件についてはコメントしないと述べた。その上で、一般的には取引の前後の状況に加えて取引の動機や性質、方法などを総合的に勘案して判断していると説明した。野村HDの広報担当は、SNS上に投稿された個人的な見解についてはコメントできないと話した。
澤田氏によると、野村証は問題となった先物取引から3年以上にわたって同氏を擁護したという。監視委の調査が始まった後も澤田氏は取引を統括するポジションにとどまり、同社を代表する立場で日本銀行や財務省の会合にも出席した。
その後、24年4月初旬に同氏は国債を取引する部署からの異動を命じられた。「舐めた姿勢を見せられた」と感じた澤田氏は7月4日に退職の意向を伝え、いわゆる「ガーデニング休暇」に入った。10月初旬が正式な退職日となった。仕事を探し始め、ヘッジファンドでの就職が決まりかけていた時、監視委が金融商品取引法違反で野村証に課徴金を課すよう金融庁に勧告。採用は見送りとなった。
9月末に同社は澤田氏を呼び出した。体調の悪化のため数日の延期を願い出たが、会社側が日程の変更を拒否したため出社した。「会社に出向くと想像以上にひどい対応だった」と振り返る。「懲罰解雇の文面を読むだけで終了。こちらが何を聞いても答えてはくれない。もしくは預かりますの一点張り」だったと記した。
就職活動は難航
野村証を辞めた後の生活は容易ではなかった。澤田氏によると、ヘッジファンド1社からの採用が破談となり、就職活動をしていたもう1社のヘッジファンドも同氏の採用を見送ったという。家族は株のオンライン取引を続けることに反対し、より安定した仕事を探すことを強く望んでいる。
過去に踏ん切りをつけるために始めたSNS投稿も、期待したほどの救いにはならなかった。「便所の落書きを続けている訳には行かず、何かしらに向けて立ち上がらなければいけない」と投稿している。
投稿の内容は債券市場の参加者の関心を呼び、多くの注目を集めた。しかし、仕事はまだ決まっておらず、マーケットから離れるべき時が来たのか思い悩んでいる。
同氏は投稿で「半年間近く第二の人生を模索しているのだが、自分が好きな事、継続して出来る事、人生を捧げられる事は、残念ながら『相場』しかなさそうだとは気付いている」と胸の内を明かした。「ただどこかでは諦めが必要なのかもれないという事も認識はしている」
(投稿内容を追加して記事を更新します)
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