78年前に初めて人の頭の上に落とされた原爆は、多くの子どもたちの命を奪いました。広島の学校の中で最も多くの犠牲を出した女学校があります。原爆は生徒たちの何気ない日常を奪いました。
核兵器の使用や保有などを全面的に禁止する核兵器禁止条約の第2回締約国会議が27日から米・ニューヨークの国連本部で開かれます。きのこ雲の下で何が起きたのか。RCCがこれまでに取材してきた被爆者の訴えを改めて伝えます。
平和公園(広島市中区)すぐそばに、世界で最も有名なアインシュタインの公式「E=MC²」が刻まれた碑があります。広島市立第一高等女学校の慰霊碑です。現在の広島市立舟入高校の前身で「市女」と呼ばれ親しまれていました。
広島市に住む加藤八千代さん(94)は、市女の卒業生です。加藤さんが入学したのは太平洋戦争が始まる1941年でした。

加藤八千代さん
「楽しい学校でしたよ。みんな明るくて」
すでに日中戦争が始まっていましたが、市女には楽しい思い出が詰まっています。
加藤八千代さん
「1か月に1度、全校生徒が集まってね、音楽のレコード鑑賞があった。秋には、大きな音楽会があって、呉の海軍軍楽隊がバスで来てくれた。楽しかったんですよ」

家庭にレコードやテレビがない時代。学校の行事が楽しみの一つでした。
加藤八千代さん
Q女子高ならではの空気感とかも当時はあったんですか?
「やっぱり今と同じと思いますね。みんなでおしゃべりして。お弁当持ってくでしょ。そしたら、はしを持ってね、ぐるぐる歩く友達がおる。『あ、卵があった』ってちょっとつまんで。でも、みんな、それはもうみんな承知のことだから『はい、どうぞ』って。『一つならあげるよ』って」