原爆によって奪われた676人の生徒・教員の命…

女学生のときの加藤八千代さん

しかし、戦況が悪化すると生活は一変しました。加藤さんも1944年から軍需工場へ動員されました。そして、1945年8月6日、この日は工場が休みでした。加藤さんは友達と宮島に遊びに行く約束をしていました。待ち合わせ場所の己斐駅にいたときにでした。

加藤八千代さん
「そこまでは記憶があるんです。それから先が吹っ飛んだんですね。8時15分で。気がついたときには、本当に真っ暗なんですよ。暗いと言っても本当に夜中のような暗さ」

加藤さんに大きなけがはありませんでした。しかし、広島市中心部を見てみると、広島は火の海になっていました。

加藤さんが被爆した場所付近=広島市西区

加藤さんに大きなけがはありませんでした。しかし、広島市中心部を見てみると…。

加藤八千代さん
「もうすごかったですよ。広島中が火の海ですもの。すごい煙がわーっと。時々、火柱がわーッと上がって」

その中心部では、市女の1・2年生541人が空襲に備えて防火帯を作る建物疎開作業に当たっていました。爆心地からわずか500メートル。全員の命が奪われました。

加藤八千代さん
「本当に、たくさん、たくさん。1・2年生ってまだ子どもですからね」

建物疎開中の1・2年生541人に加え、市女の生徒・教職員の犠牲者は676人に上りました。残された遺族の悲しみは癒えることはありません。