不眠不休で救護にあたり 当時17歳だった看護学生の証言
愛之さんが勤務していた広島赤十字病院は、爆心地から1.5キロほどの場所にありました。鉄筋コンクリート造りの本館だけは倒壊をまぬがれ、数千人もの負傷者がここを目指し、殺到。現場は過酷を極めました。その当時を知る看護師の証言が残されています。
2006年に取材に応じてくれた大島キミエさんは、広島赤十字病院で看護学生として救護に当たっていました。当時17歳。自身も被爆したものの、救護に奔走しました。
広島赤十字病院の看護学生・大島キミエさん(取材当時78歳)
「直後はねもう、日赤の玄関の前は死体とやけどした人の山ですよ。それこそ山のように押し寄せてくるんです。日赤日赤と言って。やけどで顔が真っ黒、体が膨らんでいるんですよね。水ぶくれみたいになって」
泣く人、叫ぶ人、息絶えた人。当時は足の踏み場もないほど多くの被爆者が倒れていたといいます。辛うじて生き残った病院職員に加えて、看護学生も被爆直後から不眠不休で看護にあたりました。
「顔に紫色の斑点ができて、脱毛して出血したらもう死期が早いですね。大体亡くなりましたよね。あれが原爆症。原因が全然なんであんななるのか治療の仕方がないですよね。もうわからない」
大島さんと同じ日赤病院の看護学生22人も原爆で亡くなりましたが、無我夢中の救護活動で悲しむゆとりもありませんでした。
次々に亡くなる人を荼毘に付すのも学生たちの仕事だったといいます。
「17歳のね、今の高校生が死体を焼く。それがね、悲しいとかね、痛いだろうとかそういうことは一切ない。ただ機械的にどんどん兵隊さんが死体を運んできたのを並べて焼くだけですよね」
壊滅状態の病院で医療機器も不十分。未知の病には症状を和らげる対症療法を施すほかありませんでした。


































