戦争で離れ離れになった家族
この舞台に至るまで家族は、沖縄戦前夜の空襲「10・10空襲」をきっかけに、離れ離れになっていました。
「みんなで一緒に、うちの父も一緒に石川(現うるま市)まで逃げたが、父親はまた那覇に帰らないといけない。まだ劇場の整理ができていないので」
家族で空襲から避難したものの、父親の光裕さんだけは、那覇に引き返しました。当時小学4年生だった光晴さんは、母親や妹2人と、石川より少し北の金武へ避難。家族は離れ離れのまま、光裕さんは、南部の知念で終戦を迎えました。
この頃米軍は、教育担当官のウィラード・A・ハンナ少佐が、沖縄の文化活動の再興を企てます。軍の命令で、沖縄の役者たちが石川に集められたのです。光裕さんの回顧録には、ハンナ少佐から告げられた言葉が残されていました。
――「民心の安定をはかるために沖縄の芸能を振興したい。これは米軍の文化政策のひとつでもある」「沖縄の人々も今は虚脱状態にあるが、一日も早く心の糧を与えなければならない」(光裕さんの著書・石扇回想録より)











