母が最後まで貫いた「よさこい魂」
よさこいの魅力を伝えるため、精力的に活動していた須賀さん。そんな須賀さんを病魔が襲ったのは57歳のとき。胃がんで、余命4か月と宣告された。
そこから、がんとの闘いが始まるが、須賀さんは、変わらない笑顔でよさこい魂を最後まで持ち続けた。その年2011年3月のホノルルフェスティバルでは、東日本大震災の被害を知り、鎮魂の祈りを込め踊った。
痩せた体で、「命を燃やせ、魂燃やせ!」と叫び、よさこいのエネルギーが日本に届くよう、踊り子たちを鼓舞していたという。

フェスティバルが終わった後、須賀さんは闘病中でありながら、裕一郎さんも驚く行動に出る。「日本で苦しんでいる人がいる。今、私にできることをやりたい」と、周囲の反対を押し切って日本に帰ってきた。そして帰国後はすぐに、全国のよさこい仲間に支援物資や支援金を呼び掛け、被災地で自ら炊き出しも行った。
■國友裕一郎さん
「千葉にもスタジオがあって、私たちは東日本大震災で被災したんです。そこにがんと闘っている母がやってきて約2か月、被災者の方たちの支援を行ったんです。もう痩せてガリガリになった体で。母の懸命な姿は、私たちに何かを伝えようとしているかのように見えました」
最後の力をふりしぼっての支援活動だったのか、その後、須賀さんは病状が悪化し入院。医師からは「あと数日もつかどうか…覚悟してほしい」と告げられる。それでも須賀さんは、最期までよさこいへの思いを口にしていたという。
■國友裕一郎さん
「母はベッドの上で、次のよさこいの指示を出し続けるんです。『九州の舞台はこういう風な構成にして』『今年のよさこい祭りでは、“五色の龍”の踊りをつくっていいエネルギーでパレードをして、エネルギーを高めていって皆に幸せになってほしい』ずっとそんなことばかり言っていました。息を引き取る直前まで、母は目をしっかりと開いて、その体からは強い意志が感じられるほど。最期は母の手を握りしめて、深い感謝の気持ちを伝えました」
2011年6月1日、國友須賀さんは家族や仲間に見守られながら旅立った。58歳だった。
「がんの私でもできることがある」と最後まで人の為に生き抜いた母。裕一郎さんは、そんな母の生き様を少しでも多くの人に知ってほしいと語る。須賀さんが、よさこいへの思いを表していた、こんな言葉がある。