2度にわたる命の危機 30代生死さまよう体験が人生観を変えた

志穂美さん、最初の「命の危機」。東京暮らしだった19歳のとき、子宮に悪性リンパ腫が見つかった。「子宮全摘かもしれない」この先結婚、出産という未来が描けなくなるかもしれないと、大きな不安に襲われた。

更にこの時既に「ステージ4」と診断され、生まれて初めて「生と死」を見つめた瞬間でもあった。幸運にも、治療にあたった病院が、高度な医療技術を取り入れていたことから、全摘は免れ、将来への望みは絶たれることはなかった。

病をきっかけに、志穂美さんは東京から故郷・高知へ帰ることになる。大病を克服した志穂美さんは、21歳で起業。夫とともに輸入車販売会社を立ち上げた。

60坪のプレハブ事務所からのスタートで苦難の連続だったが、2人の熱意に加え、好景気も後押しし、徐々に事業は軌道に乗り、わずか2年で新社屋のもと、株式会社を設立するまでに成長していった。

子宝にはなかなか恵まれず、不妊治療を始めることになる。そして長い不妊治療の末、28歳で待望の長男を出産、そして35歳で長女を授かる。

2度目の「命の危機」は、2人目の子どもを出産した半年後のこと。風邪薬を飲んだところ、全身にじんましんが出て呼吸困難の状態となり、即、病院へ。アレルギー症状が急激に引き起こされ、場合によっては命に関わることもある「アナフィラキシーショック」だった。

志穂美さんは重篤で、一時、心肺停止となった。そのとき横たわっている自分の姿が見え、「あの寝ている体に何とか戻らなくては」ともがき、やがて神々しい光に包まれる中、ある誓いをしたことで、命を吹き返したという。いわゆる臨死体験で、そこから人生観が変わったと語る。

■山本志穂美さん
「不思議な体験でしたが、そのとき『これからは、子どものためだけに生きます』と誓いました。19歳のときの経験も合わせると、一度ならず二度までも命を失いかけたことで、『生かされている』ことへの感謝の気持ちが一層強くなり、なぜ生かされているのか、その理由を問いかけるようになりました」

志穂美さんはその後、薬や添加物を一切受けつけない体質となり、人一倍食生活に気を配るようになった。「アスリートフードマイスター」の資格は、その延長でとったもので、まだサッカーに出会う前のこと。それがずっと後になって、寮母として生かされたということも、不思議な運命に導かれているようだ。

志穂美さんは今、「生かされている理由」を社長という新たなステージに見い出している。