青森県の歴史を紹介するシリーズ・ふるさと歴史館。第63回はスキーの町・大鰐です。大正時代にスキー場が整備されると県内外から多くの人が訪れ活況を呈しました。



1960年台前半の大鰐温泉スキー場。暮らしが上向きスキー人口が増えていた時代、大会も数多く開かれました。当時、ジャンプの技術は発展途上、腕をグルグル回しながら飛ぶ選手も多くいました。

腕を回しながらジャンプする選手(青森県 県史デジタルアーカイブス提供)

こうして、スキーの町として発展してきた大鰐。その歴史を支えてきたのが1946年に創業したヒュッテ銀嶺(ぎんれい)です。代表の五十嵐満(いがらし・みつる)さん90歳はスキー用品のメンテナンスをしながら、貴重な資料を保存してきました。

こちらは戦前のスキー板です。

※ヒュッテ銀嶺 五十嵐満さん
「スキー靴がない人は、長靴で板をはいた。スキー板の裏側もエッジがついていません。一枚板で、先を蒸気で蒸して曲げている」

スキーが大鰐へ伝わったのは大正時代です。当時の大鰐は、温泉街として賑わっていましたが、冬場の新たな娯楽、そして名物を作ろうと着目されたのがスキーでした。スキー場を整備して数々の大会を誘致。競技スキーのメッカになると、その情景を描いた歌も作られ、選手たちが盛んに口ずさんだといいます。

※愛唱歌シー・ハイル(=ドイツ語でスキー万歳)

「町にはチラホラ灯がついた。ラッセル急げよ。オーシー・ハイル」「シー・ハイルスキー万歳です!宴会が終わって町へ帰る選手も、山から降りる時は歌いながら帰っていった」

選手たちをサポートするなかで五十嵐さんはジャンプ用の板の調整にひときわ神経を使ったといいます。一人ずつの要望にあわせて作業しますが、先端を重くしたい時は硬貨を貼りました。

※ヒュッテ銀嶺 五十嵐満さん
「こういう風に貼って、水平バランスをとる。これをやるのが、私らの夜の商売。あしたの試合のために、きょう練習してきて、『まだ先が軽い。やってくれ』と」

こうして大会が開かれるたびに大鰐には多くの人が訪れ、五十嵐さんのヒュッテは賑わいました。さらにスキーブームも到来し、大鰐町は駐車場やリフトを整備して県内外から人を呼び込んでいきます。