「壮絶な寒さと食料不足、チフスで仲間が死んでいった」
しかし、その3か月後には日本が敗戦。訓練所にも旧ソ連軍が押し寄せ、武器や物資が奪われました。さらにー。

(山本泉さん)
「それで全てのものがなくなったと思ったら、現地の満州の人が銃を持って襲撃にくる、物をとりにくる。野原で皆裸にされて、ふんどし1つでとられた荷物を持って帰るのを手伝わされた」
「すぐに引き揚げることになって、帰りは屋根がない貨車。雨が降ればずぶ濡れ。トイレに困って貨物列車の後ろに梯子がある。その梯子にぶらさがって代わる代わる用を足した」

列車に乗ったものの帰国のめどがたたず、1945年10月からは訓練生の多くが西安炭鉱で働きながら暮らすことになりました。しかし、そこで待っていたのは想像だにしない試練でした。
(山本泉さん)
「大勢そこで死んだ。とにかく冬が寒いのに布団がないんじゃ。1枚の布団を2人3人で引っ張りあって寝たわけ。朝になって一緒に寝ようた者が起きないなあと思って見たら亡くなっとる。冷たくなっとる」

マイナス数十℃という壮絶な寒さと食料不足、シラミが媒介するチフスで、多くの仲間が命を落としていきます。

(山本泉さん)
「粗末な箱をもらって、遺体をそれに入れて、広場に溝を作って鉄の棒を渡して、その上に寝させてなあ、お互いに火葬していた。ぷつぷつぷつぷつ身体に散ってくるが汁がな。魚を焼くようなもん」

山本さんの幼いころからの友人も亡くなりました。火葬場に運ぼうにも、遺体は馬車に乗せてもらえず、ロープで縛りこもを巻いて荷物のようにして運びました。
(山本泉さん)
「こうまでせにゃあいけんのかな、と思って辛かったけど、そうしなきゃ焼いて(お骨を)持ち帰ることができんから」
岡山県から送り出された2700人の少年のうち、数百人が亡くなったといわれています。山本さんは1946年9月に船で長崎県の港に到着。生きてふるさと岡山に戻りました。隣り合わせだった生と死。隔てるものは何もなかったと話します。

(山本泉さん)
「運が良かったと言えばそれまでじゃな。生きて帰ったからこそこうしておたくらと話ができるんじゃ」

12月には93歳になる山本さん。今も亡き仲間の顔が浮かび続けます。