今年でJリーグがスタートして30周年を迎えた。Jリーグ創設当初から名を連ねる「ガンバ大阪」。大阪府吹田市にホームグラウンドがある。2014年には、J1リーグ・天皇杯・カップ戦で優勝。三冠を達成した輝かしい実績を残している。いまクラブを率いるのは、かつて高校球児として甲子園での優勝経験がある小野忠史社長だ。全くサッカー経験のないままクラブの運営を任され、新型コロナの感染拡大で厳しい時期も経験した。いま小野社長は何を考え、クラブをどこへ導こうとしているのか聞いた。

「逆転のPL学園」の経験から「最後まで諦めない精神」を大切に

―――小野さんはサッカー少年ではなく、かつての強豪校、大阪のPL学園野球部だったんですよね?
 全寮制でしたので四六時中、気を抜くことができなかったですね、特に下級生のころは。練習は当然、厳しかったですしね。高校2年生の第60回夏の記念大会で優勝しました。甲子園に出させていただいて当時は「逆転のPL学園」と呼ばれる時代で、まさに私自身が2年生の夏の大会と3年生の選抜の時に「逆転のPL学園」を身をもって経験をさせてもらいました。すごい試合で特に2年生の準決勝は、4対0で負けていたのを9回裏に4点追いついてサヨナラで勝って、決勝戦は2対0で負けていたのを最終回に3点とって優勝しました。最後まで諦めない精神というのは、その後の人生にとても役に立っています。実際、身を持って経験できたので、最後まで諦めないという精神は、仕事においても私自身、すごく大事にしていることですね。

―――小野さんが社会人野球のユニフォームを着ていたのは27歳までですか?
 選手としては27歳までで、その後にコーチをしまして指導者として33歳までユニフォームを着ていました。それからは毎日スーツを着る生活になり完全に野球を卒業して、もう新入社員同然でした。松下電器(現パナソニック)に同期で入ったメンバーは主任に昇格してバリバリ仕事していましたけど、私は全く右も左も分からないところからのスタートだったので、その時はものすごいプレッシャーでしたね、10年の差があるわけですから。仕事ができないので、一番に会社行って鍵を開けて机を拭くことからやりました。本当はね、仕事で貢献できればいいんですけど、まず商品を覚えないといけないですし、1人で営業なんて行けませんから、まずは元気良く、職場の雰囲気を良くしようと挨拶からしっかりして「体育系らしく」から入りました。 

―――仕事としては営業でしたよね?
 営業一筋ですね。ある自動車メーカーを顧客密着営業という体制で担当していました。いまある商品を売りにいくんじゃなくて、お客さまが欲しい商品を開発するんです。私の担当でしたら車に必要な商品をどれだけ提案するかということです。ですから、できるだけお客さまとのコミュニケーションを密にして要望をとにかく聞き入れて、我々の開発部隊と連携しながら商品を生み出していく...。だから、私が担当しているお客さまにパナソニック初の商品を世に出させていただいたこともあります。