塩澤さんと新津さん:
『勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからは~』

最初は地域住民総出で軍歌を歌い兵士を送り出したといいます。

そして2人の生活も日に日に苦しくなりました。

新津さん:
勉強はそこそこで勤労奉仕で毎日が過ぎた。麦刈り、稲刈り、草取り、、大豆は3メートル以上ある道路へ巻いて歩いた。田舎の道が大豆の畑みたいにあちらこちらに生えていた。

塩澤さん:
勝つまではという頭がずっとあったので「なにくそ」といいながら生活してきた。

特に新津さんが苦労した作業が生まれ育った町に造られることになった日本陸軍の秘密飛行場、御勅使河原飛行場の建設です。

「ロタコ」と呼ばれていて、長さ1.5kmを超える滑走路周辺は今もその跡を残しています。

新津さん:
ロタコはもう言われるままに土を入れてもらって、天秤棒を2人で担いで歩く。ここと言われたところに運んで何度歩いたか数えていない。
「暑い暑い」「疲れた」とは言えない。暑いと言っても勝つまでは。疲れたといっても勝つまでは。

しかし、この飛行場が実際に使われることはありませんでした。

また塩澤さんは一方的な教育を受けたことを今も悔やんでいます。

塩澤さん:
まず、絶対英語をしゃべってはいけない。負けるという教育はされなかった。どこまでも最後は竹やりをもって本土攻撃を受けても勝つという教育を受けていた。負けるということは知らなかった。

勝てると信じていた戦争。しかし2人が目の当たりにしたのは惨状ばかりでした。