JNN特派員が現場取材した“戦争の傷”、後編は軍事クーデターから1年が経過したミャンマーについてのルポ。軍による残虐な弾圧は世界に衝撃を与えたが、市民は抗議の声を上げ続けている。また戦闘と無縁な人生を歩んできたはずの若者が、戦いに身を投じざるを得ない現実が存在している。

■「立ち上がるほか方法はなかった」

男性(32)はクーデター直後、少数民族武装勢力の元で軍事訓練を受けた

アウン・サン・スー・チー氏を象徴として、民主化が進められていたはずのミャンマーで軍事クーデターが起きたのは2021年2月。まる1年という節目の直前、記者はミャンマーと国境を接するタイ北西部に入った。小さな川を挟んだ向こう側はミャンマー、少数民族武装勢力『KNU=カレン民族同盟』が支配する地域が広がる。抗議活動に参加し、軍に追われる立場となってしまった民主派支持の市民の中には、こうした少数民族の支配地域に逃れた人々も多い。さらにその一部は、タイ側に潜伏して抵抗活動を継続している。取材先に国境地帯を選んだ目的は、軍の監視の目から離れたところで抗議を続ける市民に詳しく話を聞くためだった。

様々な伝手を辿り、軍に対する攻撃を続ける武装市民グループのメンバーの1人にインタビューする機会を得られた。潜伏先は、大通りから少し入り込んだところにある目立たない一軒家だった。人目を避けるように建物の中から手招きする男性は小柄で、二十歳前後にも見えたが32歳だという(取材当時)。小さなテーブルと椅子があるだけの、がらんとした空間でインタビューは始まった。

■「きっかけは軍の残虐な弾圧」

インタビューは今年1月末、タイ側の国境の街で行われた

ーーなぜ武装蜂起を決意したのですか

「クーデター後、我々はすぐに都市部で抗議デモを開始しました。平和的なデモです。しかし軍は武力でそれを制圧しました。そして3月27日、私たちのデモ隊は軍の4つの部隊に完全に包囲されました。軍が使用した武器は催涙弾などではありません。大型のマシンガンや手りゅう弾による攻撃を受けたのです。仲間4人が重傷を負い、そのうち1人は手と足が切断されたうえ、失明してしまいました。本当に非人道的な弾圧でした。その時、非暴力で抗議をしても何も変えられないのだと悟ったのです」

3月27日の『国軍記念日』に、ミャンマー全土では大規模な抗議デモが展開された。軍は躊躇なく武力で弾圧した。明らかに無抵抗な市民に発砲する兵士、射殺された息子の遺体を抱きかかえて泣き叫ぶ父親など、現実と思えないほどの残虐な映像がSNSに次々と投稿され、拡散されていった。

100人を越える市民が犠牲となったその日、武器を取ることを決意したと男性(32)は明かした。

“暴力を前に平和的手段では何も変えられない”、前編で記した、50年前の北アイルランドで起きていた構図と全く同じだ。彼が向かった先は『KNU=カレン民族同盟』だった。

「軍と戦うためには少数民族武装勢力の助けを借りるしかないと考え、3日後には仲間とともに『KNU』の支配地域に入り、そこで2か月の軍事訓練を受けました。そして再び都市部に戻って行動を開始したのです。軍の検問所を爆弾で攻撃しました。空軍の基地にロケット砲を打ち込んで破壊したのは、私たちの戦闘の大きな成果だと考えています」

軍の施設や関係者を狙ったゲリラ的攻撃は全土で頻発している。軍が神経を尖らせるのは、彼らのような『PDF(People’s Defense Forces)=国民防衛隊』と呼ばれる団体の動向で、せん滅しようと躍起になっている。潜伏先の情報を掴めば、すぐに部隊を出動させ、その場での射殺も厭わない。必然的に『PDF』は都市部から追われ、拠点を少数民族の支配地域内に置くことになっていった。彼は軍との戦闘において「少数民族武装勢力と共闘している」と証言した。

「武器はKNUから入手しています。彼らは軍との戦いの歴史の中で、武器の調達ルートを持っています。戦いを支持する市民からの寄付金が活動費となっていて、それで武器を購入するのです。現在、軍との戦闘が激化していますが、我々は後方支援で弾薬や食料の補給を担っています」

一方で軍は、幹線道路を封鎖するなどして物資の輸送を妨害。さらにクーデターによる国内経済悪化で市民からの寄付金も減少し、戦いは厳しさを増しているという。

「武器の値段が高騰してきています。弾薬も足りません。最近は、武器を自分たちで製造する取り組みも始めています」