東日本大震災から12年目の3月11日、福島県双葉町ではバラバラの避難先から戻ってきた住民たちが久しぶりの再会を喜び合う姿がありました。双葉町は2022年にようやく一部で避難指示が解除されましたが、住んでいるのはわずか60人です。町は再生できるのか、様々な思いが交錯する双葉町を取材しました。
震災12年 原発に翻弄された福島県“双葉町の今”
村瀬健介キャスター
「12年前に事故を起こした福島第一原発です。今も事故の処理が続いていることがわかります」

原発事故のあと、全町避難を余儀なくされた福島県双葉町。この区域は車での通行は可能だが、歩いて通過することは、いまだに禁止されている。

村瀬キャスター
「町の洋品店ですね、去年まではこの建物、かろうじて建っていたということですけれど、今年は完全にひしゃげてしまっています」
東日本大震災から12年。今、町は少しずつ動き始めている。

2022年8月、双葉駅を中心とする「特定復興再生拠点区域」、いわゆる「復興拠点」の避難指示が解除された。住民の居住が、原発事故後、初めて可能になった。
2月初め、復興拠点には念願の診療所もオープンした。12年ぶりの医療機関再開に町民は…
双葉町民
「よく第1歩って言うけど、2歩も3歩も進んだ感じです」
開所に向けて準備を進めてきたのが、双葉町・健康福祉課の志賀公夫さん(62)だ。

双葉町健康福祉課 志賀公夫 主幹
「医療施設がスタートしたことが、双葉町に目を向けていただく材料になる」
帰還する町民が少ない中、2022年9月、役場がいわき市内から双葉町に移転したことに伴い、志賀さんは故郷に戻った。今はこの家で、両親と3人で暮らしている。
志賀公夫さん
「うちの両親、特に父親なんかもですね、農業とか仕事をやってましたので、ここで定住できる安心感はあると思います」
双葉町に戻った両親は…

母 朝子さん(85)
「1日中、太陽の下で生活できるから、これが一番の幸せ」
父 國雄さん(83)
「心にゆとりができた。自分の居場所はここしかない」
原発事故のあと、両親と妻と娘は双葉町から100キロ以上離れた会津美里町の借り上げアパートに避難。

そして震災から4年、長引く避難生活に限界を感じていた家族のために、いわき市に新しい家を建てた。
志賀公夫さん
「両親はストレスを感じていたと思うので、自宅の再建が必要かなと」
現在、志賀さんは、平日は役場で働きながら双葉町の自宅で暮らしている。そして週末は、車で1時間以上かけていわき市の新居に通う、2拠点生活を続けている。家族バラバラでの暮らしは12年にも及ぶ。
志賀公夫さん
「家族がバラバラになったのが悲しい、それが現実です」
築年数のまだ浅い、新しい家。現在、ここには妻が一人で住んでいる。長年、看護師をしてきた妻は、5年前からいわき市内の医療機関で働き始めた。今はこの場所を離れられないという。

妻 美恵さん(61)
「子どもの健診が月2、3回、採血のバスに乗って、3か所かけ持ちでやっている。状況的にはここ(いわき市)が拠点になっている」
すでに根付いてしまった避難先での暮らし。震災の年、小学5年生だった娘は、現在、作業療法士として、茨城の病院で働いている。双葉町に戻る気持ちはないという。

妻 美恵さん
「娘にとっては、故郷は会津なんです。高校時代が一番(友達と)濃密な付き合い方をしてるので、『私は双葉は小学5年生までで終わった』って」
長い避難生活で気持ちが離れてしまう町民は少なくない。夫婦の思いも、どこか複雑だ。
妻 美恵さん
「その時その時、最善の選択はしてきたつもりですけど、本当に最善だったのかと思うときもある」
志賀公夫さん
「そこは分からないです」