■「平和的デモで権利を得られないのなら武器を」

レイモンド・マッカートニー、取材当時67歳。“一つのアイルランド”を目指す筋金入りの『リパブリカン』だ。『IRA(アイルランド共和軍)暫定派』メンバーとして活動、1977年に起きた2つの殺人事件で有罪判決を受け、獄中では集団ハンガーストライキに参加もした。1994年に出所、2004年にはシン・フェイン党から北アイルランド議会に立候補して当選し2017年まで議員を務めた。殺人については、2007年に再審無罪となり国から補償を受け取っている。
IRAでの役割を聞くと「どんな軍事組織でもそうだが、上の命令を実行するということ」。敢えて「人を殺したことはあるか」と尋ねたところ「ありません。その手の話はしないことにしているが、この件については答えはNO」と言い切った。
「血の日曜日事件」の時、彼は17歳の学生でデモに参加していた。イギリス軍の銃撃が始まった際、近くの住民に家に招き入れられ裏口から逃がしてもらって生き延びた。いとこは射殺された。心情的には以前からIRA支持だったが「武力闘争は自分のやることじゃない、と思っていた」という。50年前の事件はそれを変えるきっかけになった。
「軍が実力行使に出たことで、私に言わせれば、政治的な解決を模索する道は終わりました。平和的なデモで自分たちの権利を手に入れられないのならば、あとは武器をとって反撃するしか道がない、と思ったんです」
数か月後、彼は『IRA暫定派』に志願する。事件後、同じように何百人もの若い男女がIRAに入ったそうだ。事件の起きた1972年、紛争は激化し、一年で約500人が犠牲になった。『北アイルランド紛争』で最悪の年だった。
紛争はその後『統一アイルランド』を目指す武装組織と、イギリスの一部であり続けることを主張する『ロイヤリスト』の民兵組織、そして警察・軍といった治安当局の三つどもえの中で続いた。1998年に和平合意が実現したが、プロテスタント、カトリック合わせて3500人以上が死亡した。犠牲者には女性や子どもも含まれた。
レイモンドに質問した。
(Q犠牲者のうち約2000人はあなたのような『リパブリカン(統一アイルランド支持)』によって死にました)
「そうです」
(Qそれは正当化できるんですか)
「紛争が起きたわけです。『リパブリカン』の立場からすれば、武装闘争は必要でした。多大な損害と苦痛を与えたことは認めます。傷が癒えることはないでしょう。でも、若い世代に伝えたいのは、政治的解決の機会を逃してはならない、ということです。政治的解決に失敗すれば、結局は紛争になってしまう。政治的問題は政治的に解決しないといけないんですよ」
平和的なデモ、あるいは一部が暴徒化したために治安当局が必要以上の暴力を行使した結果、非武装の市民が犠牲となり、過激な武装闘争に発展していくサイクルは、その後も世界各地で繰り返されている。