■癒えない傷、消えないしこり

テレビカメラの前で起きた『血の日曜日事件』で、イギリス政府は世界から非難を浴びた。ジョン・レノン、ポール・マッカートニーも事件を糾弾する曲を書いた。イギリス政府は直後に調査委員会を設置したが、軍の行為を擁護する結論だった。
17歳の弟マイケルを失ったジョン・ケリーも事件後、IRAを支持するようになったが、武力闘争とは違う方法を選んだ。調査委員会の結論に納得しない彼は遺族会を率い、運動を続けた。そして1998年の北アイルランド和平の機運の中で、やり直しの調査委員会設置に漕ぎ着けた。『サヴィル卿調査委員会』は12年にわたる調査の結果、事件の犠牲者のうち12人は武装しておらず、残る一人も『釘爆弾』を持っていた可能性はあるが、兵士に身の危険を感じさせる存在ではなかった、と結論づけた。なお遺族は『釘爆弾』は当局が遺体に仕込んだものと主張している。当時の英キャメロン首相は「軍の行為は正当化できるものではなかった」と公に謝罪した。ジョンたち遺族の勝利だった。
ただ兵士らの刑事責任の追及はとん挫している。現在のジョンソン首相は「過去との区切りをつけて前に進むため」として「和平合意以前の紛争中に起きた事件については所属勢力・機関に関係なく刑事訴追を放棄する」ことを提案している。これはプロテスタント、カトリック双方から強い反発を招いている。
「ジョンソンは殺人者である元兵士たちを守ろうとしている」弟を失ったジョンは軽蔑の笑みを浮かべながら言った。
『血の日曜日事件』50年の日の行進の後、犠牲者の遺族は慰霊碑に白い花を一輪ずつ手向けた。遺族代表は「事件はまだ終わっていない」との声明を読み上げた。アイルランド首相やIRAの政治部門だったことがある『シン・フェイン党』党首も参列したが、スピーチはしなかった。

同じ日、デリー近郊にある住宅地では、街灯の柱に「血の日曜日事件」で若者に発砲したイギリス軍パラシュート連隊の旗が掲げられていた。掲げたのは一部の住民で、これについてイギリス軍は「許容できない」と声明を出している。ここでは道路標識の地名は英語とアイルランド語が併記されているが、アイルランド語だけ汚され読めなくなっていた。配電盤にはスプレーで、イギリス統治存続を望む『ロイヤリスト』の武装組織の名が書かれていた。
冷たい雨の中で撮影していると、周囲の家や、行き交う車の中からの視線を感じた。
