ロシアによるウクライナ軍事侵攻に関するニュースが報じられない日はない。5月9日の『第二次世界大戦 対ドイツ戦勝記念日』に合わせ、ロシアが「戦争宣言」を行うとの見方も出ている。停戦がいつ実現するのか見通せない状況が続く。そして残念ながら、世界では終わりのない紛争が存在する。全く違う場所で起き、今も癒えることのない“戦争の傷”をJNN特派員の現場取材を通じて振り返る。

■50年前の「血の日曜日事件」とは   

事件から50年の追悼集会中、虹がかかった
北アイルランド北西部にあるデリー(ロンドンデリー)は、坂の多い都市だ。車で15分も走ればアイルランドとの国境がある。今年1月、50年前に起きた『血の日曜日事件』の犠牲者の遺族や住民たち約900人が、あの日と同じルートを歩いた。空は50年前と同じく、よく晴れていた。

当時、北アイルランドのカトリック系住民はプロテスタントの支配層から二級市民の扱いを受けていた。1972年1月30日、アメリカ公民権運動の影響を受けたデモ隊が行進を始めた。その時23歳のエンジニアだったジョン・ケリーは、こう振り返る。

「みんな冗談言って笑ったり、歌ったり。若者が多少、暴れたり、投石したりはあるだろうとは思いましたよ。でも当時はそれが普通でしたから。ベビーカーを押しながら参加しているお母さんたちもいました。あんなことが起きるなんて思いませんでした。もし思っていたら絶対参加しませんでしたよ」

デモ隊はアメリカ公民権運動の象徴的な歌「We Shall Overcome」を歌い、坂を下り、再び上がった。その時、坂の上から撮影された写真が残っている。道は参加者で埋め尽くされ、まるで「人の河」のように見える。

■初参加のデモで絶命した17歳の弟

「血の日曜日事件」で射殺されたマイケル・ケリー(当時17)
市の中心部へと続く道はイギリス軍が封鎖していた。デモ隊は直進をあきらめて通りに入ったが、一部の若者が軍に投石を始めた。デモでの投石自体は日常だったという。ただこの日、配置されていたイギリス軍パラシュート連隊の兵士らはデモ参加者を拘束しにかかった。最初の銃弾はその混乱の中で放たれ、負傷者が出た。

デモ隊側も全員が「平和的」参加者だったわけではない。デモに参加していたアイルランド共和軍(IRA)のメンバーの一人は銃をとり、軍に向けて発砲していた。ただ、後に触れる『サヴィル卿調査委員会』は「最初に撃ったのは軍」だと結論づけている。

住民側の設けたバリケードには、ジョン・ケリーの弟、マイケルがいた。17歳だった。平日は北アイルランドの中心都市ベルファストで見習工として働き、週末に帰ってくる生活だった。デモへの参加は初めてで「友達が行くから」という理由で出かけたという。彼は腹を撃たれ、死亡した。

マイケルは3歳の頃、感染症から脳炎を起こし昏睡状態になった。一時は医者から「助からない」と言われたが一命を取り留めた。両親はそんな彼をいつも気にかけていた。母親はデモに参加したマイケルの姿を親戚のアパートのバルコニーから見つけ、声をかけた。しかし届かなかった。その時、バルコニーの下あたりまでイギリス軍兵士数人が進んできていた。そのうち一人がマイケルを撃ったのだった。

兄ジョンは銃撃が続く中、物陰に隠れ難を逃れた。別の男性が撃たれ、蘇生措置を受けるのを見ていた時、マイケルも撃たれたと知らされた。ジョンは、運ばれてきた弟を他の人たちと一緒に救急車に乗せたが、病院までもたなかった。

「あいつ、新しい仕事も始めたばかりで、人生これからという時でした。彼女もいたし。ひどい、ひどい、本当にひどい一日でした。」

イギリス軍の銃撃は約15分間続き、108発の銃弾が放たれた。13人が死亡し、うち6人はマイケルと同じ17歳だった。