12年前、被災の当事者であり、まだ10代の若者だった人たち。その誰もの進路に3.11が影響したと感じている。
17歳の高校生だった当時、宮城県・石巻市で被災した私は4年後、テレビ局に就職した。「“震災枠”で採用されたんでしょ?」と、心無い言葉を掛けられたこともあった。災害現場の取材では、当時の光景を思い出さずにはいられなかった。それでも、自分より遥かに壮絶な経験をし、生きてきた人たちの背中を押したい、と思った。そこには、あの日、水没する線路の上で助けてくれた人たちの存在がある。
(TBS 3.11震災特番Nスタスペシャル“いのち” ディレクター 原田真衣)

生まれ育った街が津波に飲まれた日

「最近、地震多いよね、怖くない?」
石巻市内の高校を卒業してから10日後、当時私は17歳だった。友人とファミレスでそんな会話をしていた時だった。

ゴゴゴ…
足元から突然、突き上げてくるような強い揺れ。これまでに経験した揺れとは全く違うものだった。
レストランのスープバーの鍋が倒れ、中身が飛び散った。思わずテーブルの下にもぐったけれど、何が起きているのか全く分からなかった。

当時いたファミリーレストラン「トマト&オニオン 石巻店」 震災後に撮影された店内

「津波だ!津波がくる!」 どこからか、そんな声が響いた。
遠くで煙があがっているように見えたのは、津波だった。友人と周りの大人たちと、店のすぐそばの土手を駆け上り、高さ4mほどの貨物列車の線路の上へと逃げた。

生まれ育った街はあっという間に、真っ暗に、黒い波に飲まれていった。波がガードレールを超える高さになった時、人が流れてくるのが見えた。
幼い頃から祖父母には「津波てんでんこ」という言葉を教わっていた。津波がきたら人のことは気にかけず、各自“てんでばらばら”に逃げろという意味だ。

けれど気づくと、次々に流れてくる人たちを大人たちと一緒に引っ張り上げていた。履いていたスカートや靴は、水に浸かり冷たくなった。携帯も水没してしまい、家族と連絡はとれなかった。

当時音楽プレーヤーで撮影した動画より

その夜は、津波が押し寄せる線路の上で、100人程で焚火をして過ごした。
当時、音楽プレーヤーで撮影した動画があるが、吹き込まれていた私と友人の声は、意外にも無邪気なものだった。このときはまだ、何が起きているのか全く分かっていなかった。

当時音楽プレーヤーで撮影した動画より

まだ17歳だった、私たちの未来は…どうなるの

翌日、あたりが少しずつ明るくなり、線路の上から初めて街の景色を見たとき、怖くてたまらなかった。教科書で見た焼け野原のようだと思った。

宮城・石巻市 2011年

私たちはこれからどうなるんだろう。家族は生きているのだろうか。友達は…家は…、まだ17歳だった自分たちの未来は、これからどうなってしまうんだろうと思った。

自宅があった場所に帰れたのは4日後。膝まで水に浸かりながら、何とかたどり着いた。

石巻市内の浸水した線路 2011年3月14日

迎えてくれたのは4つ上の兄だった。兄は自閉症。パニックになって逃げずにいたら…、と何より気がかりだったが、一緒に避難してくれた人がいたという。
自宅は大規模半壊とされる状態だったが、幸い家族は無事だった。