「二兎追うもの一兎も得ず」会社をたたみ エアボート1本への決断
佐々木さん
「二兎追うもの一兎も得ずだから、いまの会社をたたんでエアボート1本にしよっていう決断をして・・・」
佐々木さんは、エアボート開発に集中するため会社をたたんだ。そして山梨県の山中湖村に移住。富士山と山中湖に挟まれた土地に、自宅兼作業場を建てた。これも佐々木さんが自ら設計し、建築した。

日本には1艇も存在しないエアボート。制作は当初、困難を極めた。エアボートに使えるエンジンを新潟まで引き取りに行き、一度解体してブラシで磨き、もう1度組み立てる。プロペラはアメリカから輸入するしかない。佐々木さんは海を渡り、本場アメリカの技術者に頼み込んで教えを請うた。つぎ込んだ費用は、いつしか5000万円に上っていた。

失敗を重ね、ついに国産初のエアボートをつくりあげた。震災から3年が経っていた。佐々木さんが「スクーパー」と名付けた、水に落ちた人をすくい上げるオリジナルの装置も搭載した。

初めての救助「足がガタガタ震えてね」
そして2015年9月、茨城県で鬼怒川が氾濫した。佐々木さんはエアボートをトラックに載せ、現場に急行。到着したのは深夜1時だった。真っ暗で、ほんの少し先も見えない。これが初めての救助活動。消防隊員にとってもエアボートを見るのは初めてだ。実績もなく、夜で視界も悪かったため、佐々木さんには待機の指示が出た。
しかし2時間後、佐々木さんに緊急要請が入る。低体温症と見られる男性のもとへ、救急隊員がボートで向かったが、途中、水の流れが速く流されてしまい、到着することができなかったと言うのだ。
佐々木さん
「いやあ、怖かったですね。全部停電した訳もわからない街をエアボートで救助に向かったときは軽自動車がプカプカ浮いて、目の前を流れていくさまを見たらね、足がガタガタ震えてね」
だが、そこには助けを待つ「いのち」がある。佐々木さんは意を決して、孤立していた人の元へ…。途中、救急隊員が引き返した流れが激しい場所も、佐々木さんのエアボートはものともしない。
佐々木さんが救助に出てから40分後。救助拠点からヘッドライトの明かりが見えた。佐々木さんのエアボートだ。無事、取り残されていた人を乗せて帰ってきた。
佐々木さん
「僕の怖さよりも100倍、1000倍、待ってる人は怖いわけで、災害に遭った人は怖い、怖いなんか言ってらんないなって」

鬼怒川の氾濫で、佐々木さんのエアボートは、孤立していた46人を救い出した。
以来、災害のたびに、佐々木さんは手弁当で現場に駆けつけた。2018年7月の西日本豪雨、2019年10月の千曲川の堤防決壊でも救助活動を行った。
佐々木さん
「助けられる命を助けたいっていうのが当たり前の気持ちですよね。そういう思いでいつも水害があると救助に出て行ってるんです」

















