「これ本番ですか?」。日本人が宇宙で最初に発した一言だ。この発言の主である秋山豊寛さん(TBS報道局の元記者)が去る8月26日に亡くなった。84歳だった。TBSのもう一人の「宇宙特派員」だった菊地涼子さんが、秋山さんと一緒に受けたソ連(当時)での宇宙飛行士訓練時のエピソードや秋山さんの素顔を明かした。
座学中の睡魔対策で共同戦線
秋山さんを偲んで、久しぶりに宇宙特番のビデオを観てみました。ソユーズ宇宙船からプカプカとぎこちなくミールステーションに乗り移る秋山さんがノボリを縦に広げます。『日本人初!宇宙へ』。無重量空間で頬がリフトアップし、若々しい秋山さんの笑顔が輝きます。
「なんだか初荷到着みたいな感じです…」地上のスタジオからは拍手とともに、歓喜と安堵に満ちた笑い声が響きます。立花隆さん、筑紫哲也さん、米原万里さん、私の声も。今観てもワクワクします。
TBSが開局40周年記念事業としてソ連の宇宙ステーションに社員を送り、宇宙からレポートを届ける『宇宙特派員計画』を発表したのは1989年3月。それから6か月にわたる医学検査を経て、当時外信部デスクだった秋山さんと入社3年目の報道カメラマンだった私が宇宙特派員に決まりました。
ソ連・モスクワ郊外の「星の街」で私たちが宇宙飛行士の訓練を始めたのは10月2日。ロケットの打上げが翌90年12月2日でしたから、訓練期間は1年2か月になります。
「星の街」というのは、宇宙飛行士の訓練施設と、その従業員や宇宙飛行士が家族で住むための街がセットになった場所です。当時はソ連空軍の管轄下にあり、地図にも載らない閉鎖都市でした。そんな街で私たちは宇宙飛行士専用アパートに部屋を借り、徒歩で訓練施設に通う生活をスタートしました。
最初、生活や訓練の説明の時だけ通訳がついたものの、以後はすべてロシア語のみ。訓練科目も最初の3か月はロシア語の授業と体育だけでした。秋山さんも私も訓練生活で一番つらかったことは訓練内容というよりも、すべてをロシア語で理解し、ロシア語で伝えなければならないことでした。それでも、周りの人たちが膨大な量のロシア語を話して良い先生になってくれたこと(ロシアの人たちはものすごくたくさん喋ります)、そして、宇宙へ行くための科学技術用語が英語と似ているものが多く、複雑な文法が不要だったために何とかなったのではないかと思っています。
4か月目以降に課された訓練科目は、以下のように多岐にわたりました。
宇宙飛行力学、航空宇宙医学の基礎、宇宙ナビゲーション基礎、宇宙船の構造とシステム、軌道ステーションの構造とシステム、コンピューター基礎、姿勢制御システム、宇宙船のテレビ・交信システム、シミュレーターでの実践、生命維持装置(宇宙服・トイレ・水・食事のシステム)、飛行計画と船内文書、船内撮影技術、ツェントリフーガ(重力負荷を与える遠心加速器訓練)、コリオリ(回転椅子で内耳の前庭器官を鍛える訓練)、パラシュート降下訓練、雪の森や海上でのサバイバル訓練、緊急事態訓練など。
座学は、平日朝9時から夕方5時50分まで、1コマ1時間50分を一日に4コマ。生徒は私たち二人だけで、毎日予習復習も欠かせず、かなり疲れました。
授業中に睡魔に襲われることもありました。そういうときは、秋山さんと二人で共同戦線を張りました。例えば私が眠くて頭が下がってくると、秋山さんが先生に集中的に質問を浴びせ、注意を一身に引き付けます。そして秋山さんが一人防戦に疲れた頃、私がシャキッと起き上がって選手交代、今度は私が先生と集中的にやり取りをして秋山さんがお休みするという具合です。
こんなこともありました。パラシュート降下訓練が悪天候で中止になり、代わりに姿勢制御システムの授業になった時、私たちが「こわコン」(壊れたコンピューター)とあだ名で呼んでいた先生が窓の外を見やって「今日は天気がいいのにどうして中止になったんだろうね」とつぶやきました。外を見ると、雪が風の中を斜めに降っています。「えーっ!先生、ほんとに壊れちゃった?!」。秋山さんも私も笑いが止まらなくなってしまいました。
秋山さんが言いました。
「やけに腹を立てたり笑ったりするのは疲れてる証拠だよな」
宇宙食の試食も授業時間内でした。肉じゃがみたいな缶詰やトゥヴォログという風味豊かなデザートチーズのチューブなど、ロシアの宇宙食は総じて美味しいです。もっとも、宇宙滞在時の秋山さんは宇宙酔いのためか食欲がなく、あまり口にできなかったようですが。














