円高とバブルが経済ニュースを表舞台に

1985年のプラザ合意を機に急速に進んだ円高とバブル経済は、テレビニュースが否応なく「経済」に向き合うことを迫りました。それまで一部の専門家のものだった「為替」や「介入」といった言葉が、世の中の最大関心事になり、バブル経済は家計にまで「財テク」ブームをもたらしたからです。

日本経済は成熟化に伴って、官庁主導型から民間主導経済に大きく変貌していました。バブルのピークを迎えつつあった東京は、ニューヨーク、ロンドンと並ぶ世界の金融拠点になったのです。80年代後半は、「金融」という限られた人たちのツールが、社会の「インフラ」になり、「24時間」、「リアルタイム」の取引が、初めて可能になった時代でもありました。

経済ニュース番組のパイオニアである、テレビ東京のWBS(ワールドビジネスサテライト)の放送がスタートしたのは1988年、アメリカで経済専門チャンネルのCNBCが誕生したのは1989年のことです。いずれも、放送の速報性を最大限生かして「生で」「世界と」つなぐことが大きな狙いでした。

「不良債権」「金融危機」で鍛えられ進化

戦後の「冷戦の時代」が終焉に近づいたこの時期、世界の関心は政治から経済へと大きくシフトしていました。TBSは1991年に、経済誌や新聞、通信社、民間企業からの中途採用も募り、民放キー局(4局)では初めての経済部を独立・発足させました。

折しも、バブルが弾け、得体のしれない「不良債権」不況が始まり、やがて金融危機へと転落していく時期に、新生経済部はその力をいかんなく発揮したように思います。

新聞といわば同じ土俵で取材合戦に臨むと共に、この得体のしれない「不良債権不況」と「金融危機」の原因や背景、相互関連性を読み解き、先行きを見通すと共に、時に経済危機の裏にある人間ドラマを描くことも要請されるようになりました。

「速報性」「リアルタイム」から、事象の広がりや裏側といったニュースの文脈をどこまで伝えられるか、というレベルにまで、テレビの経済ニュースは鍛えられたのだと思います。同時にそれは、必ずしも直接的な映像がなくても価値あるものと、認められるようになったということでもあります。それだけ「経済危機」のインパクトは大きかったと言えるかもしれません。

駆け出しの頃、「テレビでも、できるかもしれない」と思った世界に、少し近づいたように、私には思えました。

「社長が生出演」を切り拓いた「グローバルナビ」

私にとってもう一つの宿題だった、「民間企業が主語になるニュース」というテーマに真正面から取り組んだのが、2000年12月スタートのBS-TBS「榊原・嶌のグローバルナビ」(土曜朝8時半)でした。経済ジャーナリストの嶌信彦氏と元財務官の榊原英資氏の二人をアンカーに、毎週、企業の社長をスタジオに招き、企業取材のVTRと共に、ビジネスの新たな挑戦を、生放送で社長に直接、話してもらうという番組です。第1回のゲストは、あのスーパードライの生みの親でもある、アサヒビールの樋口廣太郎名誉会長でした。

社長がテレビに、まして生放送で出るなどということがまだ珍しかった時代に、毎週のゲストをセットしていくことは、私を含めたスタッフにとって大変な作業でした。しかし、1時間の大きな枠で、社の「戦略」と世の「潮流」を、しっかりと「問い」、トップが「語る」という手法で、新たなスタイルの経済番組として、定着したように思います。

要は、「個別企業の宣伝に過ぎない」と言われないだけの、十分な「ニュース性」が視聴者に認めてもらえればいいわけで、その「ニュース性」をどこまで提示できるか、という制作者の力量が問われているのです。

「グローバルナビ」は、足かけ15年もの長寿番組となりました。