■「食料はたっぷりあった」…日本刀、ハンスト、けんか

元ソ連軍将校(中佐)当時のメクレル氏(撮影は1945年ごろ)

Q・収容所の出来事で覚えていることは?

メクレル氏
ある日本人が「あなたに贈り物をしたいが、これを渡すと私は逮捕されるかもしれない」と言って小さな箱を持って来ました。
私は「贈り物をもらって逮捕されるはずがない。感謝をもって報いるものだ」と答えると、彼は箱を開けてこう言ったのです。「これは侍の刀です。私は教えられたとおりに、これでソ連軍の指揮官を殺し自分の腹を切ろうと思い、刀を隠し持っていました…しかし、憎しみや復讐心は日を追うごとに消えていきました。朝から晩までこれほど気を配ってくれた。実の母親でさえこれほどの気遣いをしてくれないでしょう」と。

記憶に残っている話がもう一つあります。
ある日、収容所の職員たちが「日本人がストライキをしている。彼らはパンを食べようとしない」と言ってきました。そこで私はこう言いました。「それはハンガーストライキではない。日本人の食事ではパンではなく米を食べるからだ」
そして私は、日本人たちに説明しました。「ボロジンスキー(黒パンの一種)というこのパンは素晴らしいものだ。おいしいうえに体にいい。少しずつ慣れていってください。後悔しないはずだ」
その後、私は日本人の食料に米の量を増やすよう指示しました。私の収容所では、捕虜たちに配給されていた食料はたっぷりありました。

Q・日本人たちが待遇に不満を持って騒ぎを起こしたことはなかったのか?

メクレル氏
騒ぎですか?1年間を通じて2回ありました…
最初は…あれは奇妙な暴動でしたが、すぐに終わり有益な結果になりました。
2度目は…ある時、日本人の民主化委員会の代表が、血だらけの日本人を1人連れてきたのです。私は「医療部に行きなさい。そもそも誰が殴ったのか」と聞いたら、その日本人は「(日本人の)元将校の作業班長に殴られました。理由はありません。班長が気に入らなかっただけです。しかし将校の命令には従わなければならないのです…」

私は「あり得ないことだ!すぐにその(日本人)班長を連れてきなさい」と命じました。
「何があったのか」と尋ねると、班長は「何が?私が指示したのに、彼は笑っていたのです。我が軍(旧日本軍)では許されないことです」

私はこう言いました。「笑っていた?それは仕事を拒否したのではない!ここでは暴行は禁止されています。暴行したらここの監獄に入らなければならない。そうなってもいいのか」
「郷に入っては郷に従え、ということわざがある。ここでは私たちのルールに従わなくてはならない。だから暴力はいけない」と。
そして「彼(殴られた元兵士)と仲直りをして謝罪しなさい」と班長を諭しました。

私は収容所の日本人全員を集めてこのことを説明し、2人の日本人(班長と殴られた元兵士)はお互いに歩み寄って抱き合いました。和解が勝利を収めたのです。これは大切な学習で有益な教訓でした。収容所での騒ぎはこれしかありませんでした。

Q・ラーゲリでは、共産主義教育の一環でスターリンに感謝の手紙を書かせた?

メクレル氏
日本人がスターリンに感謝の手紙を書いた?そんなことはやらせていません。書いた人はいるかもしれませんが、やらせたりはしていません。不自然ことですから。なぜそんなことをする必要がありますか?私はいろいろなことを準備して実行した。それらは完全に正しかったと思っています。

■「ヨロシク、オツタエクダサイ」-突然、日本語で語り始めた…

インタビューの途中、メクレル氏が唐突に、日本語で話す場面があった。

メクレル氏
アイワシヌマデワスレマセン。ニホンジンミントハ、タンナルヒトビトカラ、ソウリダイジンマデ、ユルセバテンノウマデ、ヨロシク、オツタエクダサイ、マゴコロカラ
=愛は死ぬまで忘れません。日本人民とは、単なる人々から総理大臣まで、許せば天皇まで、よろしくお伝えください。真心から。(発言のまま)

特殊任務の軍事訓練を受けたメクレル氏は、英語とドイツ語のほかに日本語も習得したという。日本語について「信じられないくらい難しい言葉だった。5万3千もの文字がある」と話した。

■証言はあくまで「旧ソ連側の立場」。新事実はなかったが…

メクレル氏の体力を考慮し、インタビューを2時間で切り上げたが、再度インタビューに応じてもらい、2回で計4時間に及んだ。しかし残念ながら、インタビューで新しい事実や資料を得ることはできなかった。メクレル氏の証言はあくまで「旧ソ連側の立場」によるもので、ラーゲリの実態を正確に表したものだったかどうか疑問も残った。

大勢の旧日本兵が厳しい生活を強いられたシベリア抑留。帰還した人たちの手記や、ソ連崩壊後に国家継承したロシアが公開した資料によって、当時の悲惨な実態がわかってきたとはいえ、いまだ不明の部分も多い。私事だが、私の伯父(父の兄)もシベリアに数年間抑留され帰還したが抑留について語ってくれたことはなかった。伯父も父も他界した今、話を聞くこともかなわない。戦後77年。戦争の記憶は日に日に薄れていく。シベリア抑留についての記録を少しでもここに残すことができれば、との思いで掲載した。

■メクレル氏の「もう1つの顔」…ラーゲリ副所長の前に成し遂げていた特殊任務

実は、インタビューにはもう1つ重要なテーマがあった。

そもそものインタビュー取材のきっかけは、あるロシアメディアからの情報…
「戦後の朝鮮半島に親ソ連国家を建設するため指導者を探す必要があった。その重要任務を負った元将校がモスクワにいる」というものだった。

その「元将校」がまさにメクレル氏。当時、ソ連軍特別宣伝部長として特殊工作にあたっていた。そして朝鮮半島北部の親ソ連国家(=北朝鮮)の指導者こそ、後の金日成主席だった。

メクレル氏と金日成主席とされる写真(撮影は1945年ごろ)