第二次世界大戦が終結した直後、当時のソビエト連邦軍のラーゲリ(捕虜収容所)に元日本兵が抑留されたいわゆる「シベリア抑留」。厳しい生活と労働を強いられた元日本兵は約57万5千人で、犠牲者は約5万5千人といわれている(厚生労働省援護局)。
当時、旧ソ連国内と衛星国モンゴルに50か所以上あったとみられラーゲリのうち、シベリアのイルクーツク州マリタのラーゲリで副所長を務めた元ソ連軍将校グレゴリー・メクレル氏に、かつてインタビューしていた。メクレル氏はインタビューした翌年、96歳で他界。それから20年近くが経過し、シベリア抑留について語るロシア(旧ソ連)の関係者はもうほとんどいない。元将校が語ったシベリア抑留、ラーゲリの実態とは…
■「元将校」は庶民の住まいに暮らす優しそうな老人だった
2004年7月、モスクワ中心部から車で約30分ののどかな住宅地を訪ねた。ソ連時代に建設された「フルシチョフカ」と呼ばれる画一的なアパートが立ち並ぶ。その一角の小さな部屋で、元将校は娘のスベータさんと2人で暮らしていた。
アパートにエレベーターはなく、上の階まで階段を歩く。これも「フルシチョフカ」の特徴だ。自宅のドアをノックすると、スベータさんと思われる中高年の女性が愛想よく招き入れてくれた。部屋は広さ50平方メートルほど、モスクワ市民の典型的な住宅だった。リビングの床で座椅子に座った優しそうな老人が、手を挙げて迎え入れてくれた。
95歳という高齢のため耳と目がやや不自由で、言葉に詰まることもあった。日本語・ロシア語の通訳を交えるため、やりとりには時間を要した。記憶があいまいなせいか話につじつまの合わない部分があったり、時には饒舌に同じ話を繰り返したりすることもあり、横にいた娘のスベータさんが“解説”する場面もあった。メクレル氏の証言の一部は要約した。
■ラーゲリで作った日本人の芸術サークルと日本語新聞

グレゴリー・メクレル氏
私は1946年(昭和21年)、捕虜の本国送還を指導するポストに任命されました。公式な立場は、捕虜の本国へのダモイ(帰還)の責任者。場所はイルクーツク…
メクレル氏の娘スベータさん
イルクーツク郊外のマリタです。そこのラーゲリの副所長になり、日本人のダモイを指導していました。なぜ知っているかというと、私もママもそこにいたからです。
証言によると、メクレル氏は1946年12月から翌1947年暮れまでの約1年間、シベリアのイルクーツク州マリタ(イルクーツク市の北西約70km)に作られたラーゲリの副所長として、元日本兵の本国帰還(ダモイ)を担当。家族(妻と娘)も一緒にラーゲリで暮らしていたという。(※マリタ収容所に関して詳しいことはわかっていない)


メクレル氏
ラーゲリで私は、朝になると政治広報活動をしました。世界や日本、ソビエト連邦の情勢について。その後、日本語の壁新聞を印刷しました。日本人たちは収容所に併設された作業所で、建設のための準備作業をしていました。
ラーゲリに残った日本人に、私はこう提案しました。
「あなた方がここにいる間は、現在と未来のために有益なことに時間を使いましょう。ここでの滞在を民主主義と友好の学びの場に変えましょう。まず自分たちで自分たちの指導部を選出しなさい」と。
すると日本人たちは、民主主義委員会と議長、日本語壁新聞の編集グループと議長を投票で選び、自主芸術サークルを組織しました。学びの場を「学校」ではなく「アカデミー」と名付けました。当時、アーデーデー(АДД=友好・民主アカデミー)と呼んでいました。
日本人が自主的に活動していた芸術サークルでは、侍が出てくる日本の古い戯曲を作っていました。イルクーツクからいろんな人たちを招いて、歌や踊りのアンサンブルや講演会なども催していました。
■「毎週1000人をダモイ(帰還)させた」「亡くなった人のことは知らない」
Q・収容所には何人くらいの日本人がいた? 亡くなった人は?
メクレル氏
収容所に何人くらいの日本人がいたか…10万人だった?(※証言のまま)
そのうちどれくらいの人が亡くなったか…私は知りません。収容所近くには墓地があって、きちんと手入れがされていました。日本では、思いやりをもって墓地の手入れをすることを知っていました。
日本への帰国を希望しなかった日本人は、知っている限り1人だけ。彼は残留してロシア人女性と結婚して家族を持ち、通訳になりました。「ソビエト婦人」という雑誌の編集スタッフになりました。
Q・日本への帰還はどのようにやった?
メクレル氏
毎週、日曜日ごとに1000人ずつまとめて軍用列車で日本にダモイ(帰還)させていました。捕虜(元日本兵)を鉄道で送り出す時、送別会をやりました。日本人たちはロシア語でスピーチをしました。ある日本人が「素晴らしいおもてなしに感謝します」とロシア語でスピーチを締めくくった時、私はうれしい気持ちになりました。
旧ソ連軍特別宣伝部長でもあったメクレル氏。「印象操作」のためラーゲリの状況がいかに良好な状態だったかを強調したかったのか、あるいはメクレル氏の記憶には美談として残っていただけなのか、知る由もない。