「ソ連の2年抑留は私の最大なる幸福」抑留中の苦労を聞かれ…

終戦時、現在の北朝鮮にいた呉さんは、ソ連軍に捕らわれシベリアに送られた。

日本人捕虜約60万人が連行され、過酷な労働を強いられた、いわゆる「シベリア抑留」。重労働や食糧不足で6万人が死亡した。

呉さんが送られたのはカザフスタンの南部。寒暖差の大きい砂漠地帯だ。ここで運河の建設などに従事し、空腹と熱病に苦しめられた。

抑留中も、日本名「大山正男」を通した呉さん。2年間の抑留を終えると、日本行きの船に乗せられた。

そのまま日本に留まった呉さんは大学卒業後、横浜の華僑系金融機関の幹部となった。

抑留生活の厳しさをうかがわせる40年前の報道特集のインタビューが残っている。

呉さん(1981年放送「報道特集」より)
「(食事をもらうときに使った飯盒)少し膨れているのは、わからないように蓋を膨らませて、少しでも食料をもらうときに、入れる人が気付かないような膨らまし方で、わずか1口でも2口でも余計に食糧をもらおうという苦心の跡が見えるわけですね」

日下部キャスターが、呉さんの取材を始めたのは5年前。ソ連に抑留された台湾出身者がいたことに驚いたからです。

過酷な抑留体験を聞き出そうとするのですが、呉さんは「自分は運が良かった」と繰り返すばかりです。

慰霊碑完成の日も、記者たちから抑留中の苦労を聞かれ、こう答えました。

呉さん
「私はいろんなところで語り部として喋っているが、必ず私は『ソ連の2年抑留は私の最大なる幸福』だと。聞いた人はみんな不思議に思う」

ソ連抑留が長引いた事が幸福だったと言う呉さん。一方、戦後、台湾に戻った元日本兵にはさまざまな苦難が待ち受けていたのです。

その一端を知りたいと私は台湾に向かいました。