先の大戦を生き抜いた台湾出身の元日本兵。彼らは100歳前後になった今も日本語を流暢に話します。一言でいいから「ご苦労様と言ってほしい」。そう話す彼らを待ち受けていた戦後の悲劇とは。
「私たちは日本人だった」“台湾出身”と刻まれた慰霊碑
横浜市磯子区。終戦直後の闇市の面影を残す商店街「浜マーケット」。
細長いアーケードを抜けると、戦後80年の今年、出来たばかりの慰霊碑がある。そこにはこう刻まれている。

「台湾出身戦没者の方々 あなた方がかつて我が国の戦争によって尊いお命を失われたことを深く心に刻み永久に語り伝えます」
台湾出身元日本兵の慰霊碑。台湾人でも台湾籍でもなく「台湾出身」と刻まれているのは、戦争中は、みな日本人だったとの思いが込められているからだ。
今年7月、慰霊碑完成の法要が営まれた。この日を誰よりも待ち望んでいた、台湾出身の元日本兵・呉正男さん(98)の姿もあった。

呉正男さん
「台湾には日本人の慰霊碑はたくさんあるのに、日本には日本人が建てた台湾人の慰霊碑はない。私自身も死んだら誰も拝んでくれない、慰霊碑がないから」
日本人の手で慰霊碑を建てて欲しい。呉さんの30年来の願いだ。

2024年暮れ、人づてに呉さんの願いを知った真照寺の水谷栄寛住職が協力を申し出た。呉さんがよく口にする「祖国台湾 母国日本」と刻まれた碑も建てられた。

呉さんは日本の中学を卒業後、16歳で陸軍に志願し、航空部隊に配属された。終戦間際には特攻作戦への参加を名乗り出た。日本の軍人として死ぬ覚悟は出来ていた。
呉さん
「1945年7月に沖縄特攻に行くか行かないかの意識調査があった。そのときにもらった紙には『熱烈望』『熱望』『志望』。僕としては、順番が来たと思って『熱烈望』を選んだ」
出征のニュース音声
「台湾においても『米英撃ちてし止まん』の闘魂は火と燃えて――」
日本の植民地だった台湾の若者達が、日本兵としてアジア太平洋戦争を戦った。約21万人が軍人・軍属として南方のジャングルや中国大陸の激戦地に送られ、3万人以上が戦死した。
だが、日本の敗戦後も彼らの苦難は続いた。














