猪狩が先輩検事・熊﨑から学んだこと

一方、新任検事だった猪狩にとって、横浜地検での最大の難関は、刑事部長・若林安則(11期)から「決裁」をもらうことだった。「決裁」とは、担当事件の起訴・不起訴の判断や、公判に提出する証拠資料などについて最終的な承認を得る手続きである。

猪狩は、この「決裁」の受け方を熊﨑から学んだ。

「クマさんは刑事部の先輩検事で、風紀係として我々の部屋長でもあった。刑事部の検事は、部長の若林さんから決済をもらうために、列をつくって決済の順番待ちをした。若林はとにかく検事を容赦なく怒鳴りつけるのが習癖だった。いい大人が衆目の中で罵倒された」
「だが、この若林に怒鳴られなかった例外の検事がいた。それがクマさんだった。クマさんは部長室に入る前、ぶつぶつと記録を読み返し、“よし!”と気合を入れてから入室する。報告は立て板に水のように流暢で、身振り手振りを交えながら論理を組み立てていく。そばで聞いている私にも事案の内容がよく理解できた」

さらにこう続ける。

「クマさんの用意周到な姿勢は大いに勉強になった。以来、私も簡潔でわかりやすい事案説明を心がけ、準備を重ねて決裁に臨むようになった。すると、若林に意地悪を言われることも減り、新任でも自白が取れるようになり、結構やれるじゃないかと日ごとに妙な自信がついていった」(『激突』猪狩俊郎)

熊﨑は若林からの信頼も厚かったことから、先輩検事を差し置いて、重要な贈収賄事件の身柄処理を任されることも多かったという。

あるとき、ゼネコンの社員が否認を続け、自白しないことから、担当が熊﨑に交代した。夕方、熊﨑が社員を呼び出して取り調べをすると、あっさり自白したことがあった。熊﨑は一切、大声を出さずに諭していた。猪狩にはその取り調べが「神業」に見えたという。

横浜地検時代の猪狩は、そんな熊﨑の背中を追い、取り調べから立会事務官への気配りに至るまで、仕事を吸収していった。

「クマさんはよく牛乳を飲んでいた。胃潰瘍だったからだ。夕方になるとエンジンがかかる。ゆっくり起き上がって、警察署に取り調べに向かうか、大部屋で事情聴取を始めるのがルーティーン。夜は遅くなるので、立会事務官は大変だったと思うが、温かくて気遣いがあった。『飲み会やカラオケも、その人の考え方を理解するために大事なんや』と言い、気さくで飾らないところが、みんなに慕われていた」(猪狩)

藤間静波事件の翌年、1983年3月。熊﨑は希望していた東京地検特捜部に異動し、のちに“黄金時代”を築くことになる特捜検察の世界へ、一歩を踏み出した。

ちなみに藤間事件の裁判は、裁判史に残る異例の展開をたどった。

1988年、横浜地裁で「死刑判決」を受けた藤間は控訴したものの、その後「どうせ助からないから控訴をやめる」と自ら控訴を取り下げた。通常であれば、その時点で審理は終了し、死刑が確定するはずだった。

しかし1995年6月、最高裁はこの控訴取り下げについて「判決を受けたショックなどによる精神障害が原因で、真意に基づく意思表示とは認め難い」と判断。東京高裁での公判再開を命じ、異例の“控訴取り下げ無効”の決定を下した。

最終的には2004年、最高裁であらためて「死刑判決」が確定する。そして2007年、鳩山邦夫法務大臣の執行命令により、藤間は収監先の東京拘置所で刑を執行された。享年47。このとき法務省は、死刑執行者の氏名を初めて公表し、大きな注目を集めた。

鳩山法務大臣は公表の理由について「死刑という非常に重い刑罰が、法に基づき適正に執行されているかどうかを、被害者や国民が知り理解する必要がある」と説明した。

そのため、すでに検察庁を退官し、プロ野球顧問に転じていた熊﨑は、藤間の死刑執行の知らせをテレビのニュースを通じて知ることができた。

検事時代は「落としの熊崎」「割り屋」と呼ばれた熊﨑勝彦弁護士(24期) (東京地検特捜部長、プロ野球コミッショナーなどを歴任)
猪狩が検事時代に熊﨑と最初に出会った横浜地方検察庁