日本を震撼させた「藤沢市母娘ら5人殺害事件」容疑者の取り調べ

実は、猪狩弁護士と熊﨑特捜部長には、古くからの深い縁があった。猪狩が検察庁に在職していた頃から、両者はいわば親分子分のような間柄だった。

猪狩俊郎──1949年、福島県阿武隈山中の大越町(現・田村市)の農村に生まれた。
実家は薪の卸売やLPガス販売を営む自営業。福島県立安積高校を経て慶應義塾大学法学部に進学。卒業後は鎌倉市で学習塾のアルバイトをしながら司法試験に挑み、五度目の受験となった1978年、29歳で合格した。

1980年に検事任官。横浜、山口、仙台、青森と各地の地検で捜査・公判を担当し、約10年間の検察官生活を送った。

熊﨑と出会ったのは、猪狩が初任地の横浜地検に配属された時である。猪狩にとって熊﨑は、検察官人生の「恩師」ともいえる存在だった。

熊﨑勝彦──1942年、岐阜県萩原町(現・下呂市)の出身。大学受験に一度失敗して就職したが、再挑戦して明治大学に進学。司法試験合格は卒業から4年後の1969年、27歳の時だった。

1972年に検事となり、1980年8月から約2年半、横浜地検に在籍。この間に、日本を震撼させた「藤沢市母娘ら5人殺害事件」を担当し、名前を一躍知られることになる。

事件の概要はこうだ。
1982年6月14日、神奈川県警はストーカー行為の末に女子高生ら家族3人を殺害した藤間静波(当時21歳)を、まず脅迫容疑で逮捕し横浜地検に送致した。いわゆる「別件逮捕」である。警察の厳しい追及にも藤間は「おれには関係ない。話すことはない」と否認を貫いていた。

殺人容疑での捜査が難航するなか、検事10年目の熊﨑が取り調べに入った。藤間は、神奈川県警には心を閉ざし続けた一方で、熊﨑には少しずつ本音を漏らすようになった。

熊﨑はこのときの話を、筆者に語ってくれたことがある。

「生い立ちを調べると、彼は人から愛情を受けた経験がほとんどなかった。まずは過去を丁寧に聞くことから始めた。妹だけを可愛がる母親に折檻され、小学校では“嫌いなやつ”とレッテルを貼られ、中学では深刻ないじめを受け、やがて非行に走り、少年院も経験していた。真実を語ること、正直であることが人間にとってどれほど大切かを、少しずつ伝えていった。数日たって、『君の将来を考えているのは目の前にいるおれだけだ。おれを親、兄貴だと思って、一度真人間に立ち返ってみないか』と語りかけた」

そして逮捕から10日後の6月24日、藤間は熊﨑にこう告白した。

「今までうそをついていて申し訳ございませんでした。家族3人をあやめたのは俺です。本当に申し訳ありません」

藤間はついに犯行の全容を自供した。捜査本部は藤沢市で母娘3人を殺害した「殺人容疑」で再逮捕。さらに、口封じのため仲間2人も殺害していたことを自白し、計5人の殺害が明らかになった。

当時はまだ「ストーカー規制法」が存在せず、執拗なつきまといや無言電話がついには殺人事件へと発展したという現実は、日本中に衝撃と恐怖を与えた。

被害者家族は事件前、何度も警察に相談していた。しかし「民事不介入」を理由に、十分な捜査も保護措置もとられなかった。また、藤間は逮捕後、報道カメラに向かって不敵な笑みを浮かべ、ピースサインを見せるなど、その態度は強い社会的反発を呼び起こした。

こうした重い事件に向き合っていた熊﨑の胸には、当時の上司・竹村照雄横浜地検検事正(3期)から掛けられた言葉が、深く刻まれているという。

「竹村さんに、『熊﨑くんは、人を谷底へ突き落とすような追及をしても、そのまま放っておく人じゃない。最後には、必ずすくい上げる男だね』と言われたことを覚えている」

法律の執行者でありながら、人としての救いを忘れない――。
熊﨑の一貫した姿勢は、その後のキャリアを通じても決して変わることはなかった。