東京地検特捜部長からの一本の電話

その日の東京地検特捜部は、嵐の前の静けさに包まれていた。

1998年2月19日午後。特捜部長の熊﨑勝彦(24期)は10階の部長室で、筆者ら数人の司法記者と共に、その瞬間を固唾をのんで待っていた。テレビ各局は昼ニュースの段階から「新井衆院議員逮捕へ」と繰り返し、報じていた。

まもなく新井将敬衆院議員の逮捕が国会で可決され、夕刻には特捜部の取調室に本人が姿を見せる・・・。国会の予定では、逮捕許諾の手続きは午後6時には完了し、衆議院本会議で可決された後、午後7時頃には新井が東京地検に出頭することになっていた。

特捜部は9階の部屋に「取調室」を準備していた。新井の取り調べは、参考人聴取に続いて粂原研二(32期)があたることになっていた。

だが、歴史の歯車は音もなく狂い始める。国会の可決と本人の出頭を残すのみとなったそのとき、部長室に一本の衝撃的な連絡が入った。

「――新井将敬が自殺した」

熊﨑は、突然の一報に言葉を失う。すぐさま確認のため新井の弁護士、猪狩俊郎(33期)に電話を掛けた。

そのとき猪狩は、東京・千代田区麹町の一番町総合法律事務所から「ホテルパシフィックメリディアン東京」に向かうタクシーの車内。隼町交差点近くの最高裁裏門通りにさしかかったところで携帯が鳴った。

熊崎の声はあわてて、興奮した口調だった。

「今、情報が入ったのだが、新井将敬が自殺したんだって・・・亡くなった場所はどこか教えてくれないか」

猪狩の口から出たのは怒りの言葉だった。
 
「特捜部長のあなたが功名心で、でたらめな証拠を作って、新井を追い詰めたからこうなったんじゃないですか、責任を感じないんですか」(猪狩)

「そうじゃない。私は自分の職責から捜査を行なってきたわけで、確かな証拠関係が揃ったから手続きに進んだだけでしょう」(熊崎)

猪狩は新井の自殺という結末に納得することができず、無性に腹が立っていた。怒りを抑えきれず、旧知の仲の熊﨑からの電話を思わず切った。

猪狩は、自著でこう記している。

「新井が自ら命を絶ったという衝撃。そして、その一方で、特捜部と全面対決しようと誓い合い、半年以上ともに戦ってきた新井に裏切られたーーそんな複雑な思いが交錯していた」

野村証券や第一勧銀による総会屋・小池隆一への利益供与事件は、やがて日興証券による新井将敬衆院議員への利益供与へと波及した。約一年に及んだ捜査は、特捜部の伝統的な“着地点”である国会議員、すなわちバッジの摘発で収束に向かうかに見えた。

しかし、その丹念に積み上げられた捜査は「被疑者死亡」によって、あまりに突然、崩れ去ったのである。

「ホテルパシフィックメリディアン東京」(東京・品川区)2010年閉館
新井将敬の弁護人を務めた猪狩俊郎(33期)