太平洋戦争末期、フィリピンの山中で米軍から逃れる途中、両親と弟を失った日高軈子(ふさこ)さん90歳。今でも鮮明に残る記憶を若い世代に伝えるため、平和の語り部として活動を続けています。
マニラでの平和な日々
大分県中津市に住む日高さんは1935年、フィリピンのマニラで生まれました。太平洋戦争が始まる中、父・繁治さんは現地の商業会議所で書記長を務め、母の賴子(よりこ)さんは従軍看護婦として働いていました。
「父も母もいて、弟が2人いました。ちょっと街から離れたところにおったけど、お手伝いさんでフィリピンの女性1人と、運転手は日本人の男性が1人おった。スクールバスが迎えに来て、マニラ日本人国民学校に行っていました」
家族とは仲良く過ごし、特に父親への思いは強かったといいます。
「父のことはいつも自慢してました。柔道しよったから。優しい、大好き。もう普通はお母さんが好きやけど、私はお父さんが好きや」

一家は穏やかな日々を過ごしていて、日高さんは当時、タガログ語や英語を使っていました。

















